小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

 白い毛皮のロープを登るうちに、かかとについた血が擦れて落ちたのか、違う匂いが差し込んできた。ほっとして深く吸う。雨が降ったあとのアスファルトの匂い。なつかしい匂い。それは子どもの頃に祖母が飼っていて、ずいぶん前に死んだ、猫の匂いなのだった。そうだ、このさらさらした毛皮は、ロープではなく猫のしっぽだ。
 顔を上げると、元のサイズに戻った釈かの子がなおも高い場所におり、にっこりと微笑みながら白い猫を抱いていた。

***

 にゃあ、と猫が鳴いた。
 滅多に鳴かない猫で、声の記憶がない。しっとりした気配だけを感じさせる猫。雨を含んだような灰色がかった白い毛。わたしが雲と名付けた、いつも静かな猫。すーっと触ると、鞭のようにしなって手のひらを避ける、雲のしっぽ。釈かの子が抱いている白い猫は、たしかに雲なのだった。
 今度は鋭い叫び声がした。雲が苦悶に顔をゆがめている。白い毛皮のロープは、雲のしっぽなのだった。
「猫の尾の強度というのは、どのくらいなんでしょうね」
 釈かの子が鼻に皺を寄せて意地悪く笑い、小さく歌う。
「頼みの綱は〜猫のしっぽ〜」
 白いロープに、赤い糸が垂れてきた。雲の血だ。
 わたしがぶらさがっていることで、雲のしっぽは引き抜かれてしまうだろう。そこまでして、セミナーを修了したいのか? そうやってたどり着く「本当の自分」ってなんだろう?

 疲れた。どうでもよかった。
 自分を放り出したい。誰にもなつかない、丸い目をした白い猫。ただ、そこにいるだけで愛らしい猫。
 この猫とわたしの間には、助けてもらうほどのつながりはないのだ。猫は猫、わたしはわたし。貸しも借りもない、お互い、ただ別々に存在しているだけのもの。
 気が緩み、安らかな気持ちになった途端、宙に浮いた。雲のしっぽが切れ、わたしはそのまま、落下していった。

***

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