小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

「お気づきでしょうか。床がかしいでまいりました」
 そっと目を開けると、教室全体がクレーンで釣り上げられた箱のように、大きく斜めに傾いていた。雑居ビルの一室なのに、どうしたことだろう。
「今、この部屋では、机がみなさまの拠りどころになっています。さあ、イメージ投影法を行います。机を大切な人、愛情を寄せる相手と見なしてください。お子さん、親御さん、配偶者、恋人、お友だち。生きていらっしゃる方でなくても、かまいませんよ。亡くなった方でも心で生きていればそれでいいのです」
 大切な人を必死でたぐったが、誰も浮かばない。わたしには配偶者も恋人もなく、子どももない。親には感謝と義理の中間の情しかなく、たまに会う友人はいるが、自分にも社交生活があると安心するための道具に過ぎない。祖母を思い浮かべたが、祖母自体が宝箱の中身のように、古ぼけたモノとしか感じられなくなっていた。
 そもそもわたしが祖母を好きだったのは、祖母がかわいらしくて、やさしくて、わたしを好いてくれたからだ。醜く、冷たく、わたしを嫌っていたら、懐かなかっただろう。

「決して机を離してはなりません。お子さんや恋人を見放すのと同じですよ。すべてを捨てて残ったもの、それがあなたの宝物、本物の愛情なのです。あなたをあなたにしてくれる、かけがえのない愛」
 釈かの子が歌うように言う。みんな泣きながら机にしがみつく。机が我が子や恋人であるかのように頬擦りする者もいる。
 愛し、愛される対象がないわたしにとって机は机だが、同じくしがみついていた。床の傾斜が増し、座っていられないほどなのだ。後ろ髪を強く引っ張られたように、頭がかしいだ。
「ああっ」
 大きな悲鳴が上がった。
 何人も机ごと、教室の後方へと滑り落ちていった。
 おかしい。せいぜい十五メートルほどの雑居ビルの小さな一室なのだ。いくら斜めになっていても、滑り落ちていく場所などないはずだ。

「愛情深い方たち。きっと素敵なご家族や恋人なのね。でも残念、脱落です。喜捨セミナーでは、最後に人間関係の執着を捨てていただくのです。恋人や愛人、親と子ども、情と欲でできたつよい感情は、自分を本当の自分でなくしてしまう邪魔者だから。愛を捨てられないみなさま、さようなら」

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