小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

 声がした。背後に洗いざらしのTシャツの女がいて、私の手元を覗き込んでいる。
「パスケースを使っている人がまだいたなんて」
 女は誇らしげにスカートのポケットに手を突っ込み、スマホを出した。
「これだけあれば、財布もパスもいらないし、入れるものがないから手提げもいらない。余計なものが削ぎ落とされて、自分が純化していくのがわかるの」
 喜捨セミナーの参加者だった。
 小学生の頃、競争の道具は可愛い消しゴムと素敵なシャープペンだった。中学になるとスニーカーになり、高校になると服やバッグが加わった。大人になるとダイヤモンドやパール。そこには「三〇歳を過ぎたら、そのサイズは小さすぎてみっともない」とか、さまざまなルールが付加される。
 持っているモノの高価さ、多さ、新しさ。珍しければよいわけでなく、人気というのも肝要で、誰も知らないものだといくら価値があっても評価されない。さらに「いいもの」の定義は次々変わるから、一通り揃えたところでゴールとはならず、ゲームは延々と続くのだった。
 喜捨セミナーのルールは違う。持たなければ持たないほど勝者になれる。
 スマホ女は髪にも肌にもまったく脂気がなく、少し前のわたしなら、「もっと自分に手をかけたほうが良いのに」と心で見下す対象だったろう。
 だが、今は彼女がうらやましい。無印良品とはいえパスケースなんか使っている自分、ただの手提げとはいえ、未だいれものが必要な自分が、恰好悪くて情けなかった。

 なんとなく気まずく、スマホ女とバスを待つ体になった。その時、やけに白いものが現れた。全裸の女が、片手にスマホ、片手にペットボトル入りのコカ・コーラを持って、ゆっくりと歩いていくところだった。
 小ぶりな乳房、白い腕。金色の髪は坊主に近く刈り込まれており、無毛の性器を晒しているさまは、幼い少女にもマネキン人形にも見える。
 猥雑な街に咲いた白い蓮の花。教室にいる時から裸だったのだろうか。
 スマホ女が悔しそうにTシャツに手をかけたが、元に戻した。
 悔しいのはわたしも同じだ。手提げを投げ捨て、着ている服をむしり取り、靴を脱ぎ捨て、髪を引き抜きたい、今すぐ。
 もっと捨てなきゃいけない。もっと削ぎ落とさないと本当の自分になれない。捨てたい。シンプルになりたい。余計なものを片付け、始末し、本当の自分になりたい。素の自分になって、正直に、ていねいに生きたい。釈かの子、釈かの子、釈かの子になりたい。

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