小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

 釈かの子がくすくすと笑う。かしいだ教室に残っているのはわたしともう一人、長い髪にきついパーマをかけた、険のある女だった。薄い唇を引き結んでいる。
「もう、お二人だけですから、お話いたしましょうか。ふふふ。緊張していますね。ロングヘアのあなた、あなたはなぜ残れたと思いますか」
 パーマ女は唇を動かすが、声が出ない。机は依然、ずるずると後ずさりしていて、つかまっているだけで精一杯なのだ。教室はまるで飛行機の離陸時の上昇。いや、巨大な滑り台の途中にいるようだ。パーマ女の黒く大きな鼻孔がひらく。
「あら、机から手を放して。大丈夫、そのまま回収されます」
 手を離した途端、わたしもパーマ女も床に投げ出され、机は椅子もろとも滑り落ちていく。腹ばいになった。蜘蛛の足みたいに指を立て、前腿の筋肉を目一杯に張った。
「……残れたのは、愛情のかけらも持たれなかったからだと思います」
 絞り出すように、這いつくばったパーマ女が語る。
 親の虐待。逃れるように一緒になった夫からの暴力。死産した子どもと、堕胎した子ども。
 愛が本当の自分になる邪魔者であるならば、憎しみに満ちた彼女が残れたのもうなずける。女の物語は、唖然とするほど辛酸だった。だが、悲惨であればあるほどありきたりになるのだった。人は、自分の不幸を特別なものだと語るけれど、幾つかの不幸を並べると、どれもが平凡だ。
「短い髪のあなたはいかがかしら?」
 釈かの子に促された。自分に憎しみはあるか考えた。子ども時代について特段、不満がなかったし、男たちに暴力を振るわれたこともない。いずれも値段相応にお腹が満たせる定食のようなもので、まずくもないがうまくもなく、食べ終わった後は何を食べたか忘れてしまう。人生で出会ったすべての人と、わたしはそんな関係しか築くことができなかった。だからこそ「愛情のかけらも持たれなかった」と断言することもできない。
 ありのままに打ち明けると、パーマ女の顔がカッと明るく輝いた。勝ったと思っているのだろう。
 床の傾斜の角度が増した。滑り落ちる!

 しかし、断末魔の呻きとともに落ちていったのは、パーマ女だった。最後に目に入ったのは歪んだ顔で、ぎょっとするほど醜かった。
「大丈夫ですよ。何人でも収容できる大きい喜捨バッグがございます」
 遠くで、釈かの子の声がした。

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