小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

 釈かの子は取ってつけたように「インヘイル、エクスヘイル」とささやいた。
 ゆったりと寝そべる、その顔は大きい。小学校の二五メートルプールと同じ、いや、もっとあるだろうか。
 大きなおでこの真ん中に渦がある。乳首のような色の薄い黒子だと思っていたが、こう見ると半透明の白っぽい毛が、つむじのように額の上で、しっかりと渦巻いているのだった。
 体がぶうんと大きく揺れた。
 白い板は、白いロープに変わった。
 縄を縒ったものではなくふさふさとした毛皮でできている。韓国で買ったフォックスストールを思い浮かべながら焦ってたぐり、肩に巻きつける。ぐるぐる巻きにしてもたっぷりと余裕があるほど長く、はるか上空から降りてきているようだ。
「さあ、それでここまで登っていらっしゃい。釈かの子の喜捨セミナーの修了証とお免状を差し上げます」
 巨大化したかの子の言葉に操られ、毛皮のロープを登り始める。だが、なめらかな毛皮は滑り、思うように登れない。だいたいわたしは体脂肪率が高い低体重肥満なのだ。腕の力だけで毛皮のロープで登るなど、無謀なのではないか。
 あきらめそうになる。腕がだるい。喉が乾く。風が強く、先ほどの暑さが嘘のように寒くてたまらない。
 インヘイル、エクスヘイル
 しばし休もうと毛皮につかまったままじっとしていると、不意にロープがぐいっと引っ張られた。
 下方を見ると、黒い粒がぞわぞわと蠢いている。目をしばたいて再び見ると、人の頭だった。滑落していった喜捨セミナーの参加者たちが、わたしの毛皮のロープの端に取り付き、登ってこようとしているのだ。
 なんと図々しいのだろう。怒りで体が熱くなる。
 わざと大きく揺らすと、いくつかの頭が落下するのが見えた。
 ざまあみろ、捨てるべきものも捨てずに、わたしの白い毛皮にすがるなど、許しがたいことだ。落下する黒い頭の悲鳴を合いの手に、登っては落とし、登っては落とした。しばし休む間も、揺すって振り落してから、また登った。怒りのおかげで奮いたち、万能感がこみ上げてくる。それでも、足元近くまで登ってきた者がいる。スマホ女!
 思い切り、かかとで蹴った。ぐにゃ、と生温かい粘土を踏んだ感触がしてはっとすると、今度はパーマ女に足首を掴まれそうになり、さらに蹴った。
 足が濡れ、血の匂いがする。弾みがつき、続く何人かも思い切り蹴った。

 いったい、何人を振り落し、何人を蹴り落としたのか。

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