小説

『逆流ヲ進メ』木江恭(『高瀬舟』)

 兄のために自分の命を捨てる弟。欲しがることを諦め、与えられたものにただただ満足と幸福を見出す兄。
『わたしはああはならない。ああいうのは大嫌い』。
彼女の微笑みと声を、すぐ傍に感じた。
 僕は彼女に電話をかけた。その日も、翌日も、翌週も。何度コール音を鳴らしても、彼女が応答することはなかった。

 数年後、僕は彼女を思いがけない場所で発見した。新進気鋭の経営者を紹介するテレビ番組だった。
 彼女は急成長を続ける会社の若きトップとして取り上げられていた。相変わらず美しかったが、目の下には化粧でも誤魔化しきれない隈があった。インタビューに応じる姿勢は柔らかく丁寧だったが、微笑みでは隠しきれない気性の強さが滲み出ていた。若い女子アナの萎縮した様子からしても、僕の妄想ではなさそうだった。
 まるで毛を逆立てた野良猫のようだった。気ままにシーツの間を揺蕩っていたあの頃の彼女ではなかった。
 それでも彼女は行くのだろう。川の流れに逆らいながら進むのだろう。
 流されるな諦めるな。逆流ヲ進メ、と。
 僕は色褪せたブックカバーを纏う文庫本を本棚から取り出し、皺になった頁を捲った。

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