小説

『逆流ヲ進メ』木江恭(『高瀬舟』)

「これから、どうするんだ」
「別にどうも。ああでも、少しは楽になるかな、経済的にも精神的にも。法定相続分の遺産ももらえるし、鬱陶しい説教を聞かされることもないし」
 昨日、今にも倒れそうなほど青ざめていたのが嘘のように、彼女は淡々と肉親の死を受け入れているようだった。
「家には戻らないのか?」
「実家は兄が何とかするでしょ。昔から父の言うことをきく、よくできたお人形さんだったから」
 彼女は空のカップを置いた。
「わたしはああはならない。ああいうのは大嫌い」
 独り言にように早口に呟くと、おもむろに彼女は立ち上がった。
「お化粧してくるから、早く食べちゃってね、ユウト」
 僕の見慣れた不遜な微笑みだった。

 彼女に会ったのは、それが最後だった。
 朝食を済ませた僕らはまた愛車にまたがり、今度こそ住み慣れた都会に戻った。彼女の喪服も、人ごみでは有り触れたコスチュームの一つであるかのように溶け込んだ。
「送ってくれてありがとう。じゃあね」
 ブランド物のボストンバッグを提げて去る彼女を見送って、僕は急速に襲いかかってくる眠気と戦いながらどうにか自宅に戻った。バイクを止め、シートの下の荷物入れを開けると、濃紺のブックカバーが転がっていた。
 忘れていったのだろうか。あとで連絡しなければ。僕は億劫になりながら、屈んでそれを拾い上げた。
 ばさり、と本の間から、ジップロックのビニール袋が落ちた。ぎっしりと詰まった錠剤。
 僕の眠気は一気に消え去った。
『父親が死んだの』『突然心臓発作で』『早く死にたい、いっそ死なせてくれって、毎日毎日そればっかり』『発作の薬のピルケースを握りしめて』『ピルケースは空だった』『最後の親孝行』。
 尋常でなく青ざめた彼女の顔。バイクのエンジン音と風にかき消された言葉。
 僕は震える手で文庫本を開いた。一箇所だけ、強く折皺のついた頁から始まる短編を、その場で立ったまま読んだ。
 それはある貧しい兄弟の話だった。病弱な弟は、兄に負担をかけまいと自ら命を絶とうとするも仕損じてしまい、瀕死のところを兄に発見される。弟は止めを刺してくれと懇願し、兄はその願いを受け入れて弟の命を絶つ。そして兄は捕らえられ流罪を言い渡され、晴れやかな面持ちで刑を受け入れる。食が保証され、流刑先での生活費も少ないながらに与えられ、とても満足していると笑いながら、罪人を運ぶ船に乗せられて川を下っていく。

1 2 3 4 5 6 7 8