小説

『逆流ヲ進メ』木江恭(『高瀬舟』)

 タオルを椅子の背に放り投げ、彼女はしどけなく僕にもたれかかった。石鹸の香りが立ち上る柔らかい肌が、ぴたりと裸の胸に張り付いた。
「え、折角シャワー浴びたのに?」
「もう一度入ればいいじゃない」
 少しだけ皮の剥けた、血の色そのままの唇が僕の目の前でうっとり微笑んだ。
「今度は一緒に」
 どぷん。僕らはそのまま、シーツの海に沈み込んだ。

 ある夜彼女から掛かってきた電話が、僕らの危うい均衡を崩した。
 仕事終わりを見計らったかのように掛かってきた電話の向こうで、彼女は僕の知らない街の名前を言った。
「今すぐ出られる?迎えに来て欲しいの」
「本気?すごい無茶だよ」
「自分でもわかってる。駄目ならいい」
「わかった、行くけど、そこどれくらい掛かるの?」
 最短でも片道数時間は掛かるというので、バイクで向かうことにした。週末で道路は混んでいるが、二輪なら渋滞を避けられる。
 予備のヘルメットをシートの下に放り込んで高速を飛ばし、彼女の待つ町に着いたときには二十一時を回っていた。海が見えるわけでもないのに、生温い潮風の香る町だった。真っ暗な畑の間にぽつぽつと人家が立ち並び、街灯代わりの自販機のバックライトがチカチカ瞬いているほかは、人工の明かりは見当たらなかった。
 急いでパンを詰め込んだだけの胃が空腹を訴えるので、彼女を待つ間にファミレスかコンビニにでも寄ろうと思って探したが、これが見事に見つからない。道なりに進んでいくうちにだんだんと道幅が広くなっていったので当たりかと思いきや、土塀と瓦屋根の立派なお屋敷にたどり着いてしまった。二時間サスペンスの舞台にでもなりそうな大層な門には提灯が幾つもぶら下がってそこだけやたら明るく、黒っぽい服装の大勢の人が行き交い会釈を交わしているのが遠目にもわかったので、僕は慌てて引き返した。他人の葬式に居合わせるほど間の悪いこともない。

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