そして僕はふと気がついた。今日は一度も、どんな名前でも呼ばれなかった。
「父親が死んだの」
ルームサービスの朝食を食べながら、彼女は突然言った。
僕はトーストを取り落としそうになり、慌ててそれを掴まえた。値段と立地の割に、美味くてボリュームのある朝食だ、勿体ない。
「二、三日前から実家に戻っていたんだけど、突然心臓発作で。前々から心臓が悪くて、薬を飲んではいたんだけど」
僕の脳裏に、昨日見た光景が蘇った。
「なあ、もしかして、君の家ってすごくいい家?昨日、葬式をやってる屋敷の前を通りかかったんだけど」
「敷地だけは広いの」
彼女は素っ気なく言って、スクランブルエッグを掬った。
「時代錯誤に古臭い家でね。女に学問はいらない、嫁に行って子どもを育てて家のことをやっていればそれでいいっていうのが父の考え方で、事実母はそうやって人生の半分以上を食いつぶされた」
「お母さんは」
「とっくに。脳卒中で」
彼女の声は驚く程冷静だった。
「わたしは父の選んだ見合い相手に平手打ちをかまして家を出たから、ほとんど勘当されたようなもので。でも、いよいよ死にそうだって叔父さんが言うから仕方なく帰ったの。まあ、最後の親孝行だと思って」
ぼたり、と、半熟の黄身がフォークから滑り落ちた。
「あの人、おれはもう駄目だ、体の自由も利かないし苦しいことばっかりだから早く死にたい、いっそ死なせてくれって、毎日毎日そればっかり。そうやって脅して、家中の人間を支配しようとするの。そういうところは全然変わってなかった。わたしの顔を見るなり、死ぬ前に孫の顔が見たいって。目の前に娘がいるのにね」
彼女はフォークを放り出し、コーヒーを啜った。何故か朝食のコーヒーだけは泥水のようにまずく、焦げを溶かして作った合成物のように苦かった。
「父はね、発作の薬のピルケースを握りしめて倒れていたそうなの。運悪くピルケースは空だったわけだけど。死にたいなんてやっぱり嘘だったんだ」
彼女が平気な顔で泥水を飲んでいるのを、僕は信じられない思いで眺めた。