小説

『焦げ茶のバクダン』守田一朗(『檸檬』)

 女生徒は扉が開かれた音で身体をビクッと震わせ、怖々と振り返る。いや、そんな怪しい者じゃありませんよ、と訴えつつ、女生徒の黒橡(くろつるばみ)色に澄んだ瞳と目が合う。怯えているのか少女は何だか儚げに見える。周りの皆は「きたよ、ほら」と背中を叩いたり、「いけ!いけ!」と囃し立てたり、僕たちよりも熱を帯びてこの事態に興奮している。「やあ、待たせたね」なんて気障な台詞を口にできるわけもなく、僕は挙動不審になって、ただ成り行きに身を任せるよう思考回路を停止する。そうすると周囲の喧騒が遠ざかり、目の前に映る黒髪の少女以外の景色が透明になっていく。――世界には僕と彼女の二人だけが残された。少女の周りの空気だけが妙に鮮明に輝きだし、彼女の一挙手一投足に脳が揺さぶられるような衝撃を覚える。彼女からふわりと良い匂いが漂った気がする。何の匂いだろう。シャンプーでもデオドランドでも、ましてや彼女自身の匂いでもない。その匂いは他にたとえようもなくよかった。温かい不思議な匂いは、冬の寒空でかじかんでいた指の先にまで染み透ってゆくような快いものだった。匂いの正体はすぐに僕の前に差し出された。少女のたおやかな掌の上に、例の可愛らしいパウンドケーキが乗っている。「これ、俺に?」他に誰がいるのだ。照れてまさかという顔をして自分を指差す。少女はギュッと瞑っていた瞼を開いて、こちらをまっすぐ見つめながら何も言わずコクンと頷く。その頬をやや紅潮させて。恐れと期待、そして決意に満ちて唇を強く結んでいる。その瞳がなにやら潤んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
 気のせいであった。女生徒は俺の方には目もくれず、すでに教室奥に立っていた僕の友人に例の固そうなパウンドケーキをプレゼントしていた。その男はでれでれとだらしない顔を浮かべ、周りの男子たちにド突きまわされている。何これ。もう世界に期待なんてしない。

 すでに僕の妄想を上回り、恋愛劇場は意図せざるところで無関係に幕を開け、いつの間にか閉じている。観客は置いてきぼりだ。僕はただ机の上で頬杖をついて何かを待つ。何を待っているのかもわからない。

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