小説

『タンホイ座』佐藤奈央(『タンホイザー』)

「自分は、愛欲と快楽に溺れ、友人たちを、自分を愛してくれる人を、裏切ってしまいました。しかしこれで自分も、救われるでしょうか」
すると老人はこちらを見もせずに言ったのだ。
「あんた……お遍路一回やったぐらいじゃ、何も許しちゃもらえないよ。一度犯した過ちは、永遠の呪いだ。見ろ。この金剛杖には、二度と緑が芽吹くことはない。人は地獄の灼熱から、決して救われることはないんだよ。オレは十回目のお遍路だが、それでも救われない。これっぽっちもな」
頬を張られたような気分になった。愕然とした。逃れるように東京行きの夜行バスに飛び乗ると、一ヶ月ぶりの安い酒を体の中に流し込んだ。一睡もすることができず、早朝に降り立ったのは、再び、新宿の街だった。
                    ◆
巡礼など、何の意味もなかったのではないか。
心を入れ替えて四国八十八ヶ所を巡ったところで、鉄の掟をやぶり、ソープランドに行った事実は消えないのである。一生残るのである。
ヒトシの足は、いつしか歌舞伎町に向かっていた。「ソープランド ヴィーナス」。つい一か月前に見たピンクの看板が、やけに懐かしかった。このまま入店してしまおうか。その時、ヒトシはある事実に思い当たって、再び愕然とした。四国各地の風俗店の前で祈りをささげ続けたせいだろうか。今、この場に立っても、下半身の方は一向に勃つ気配を見せなかったのである。
                  ◆
もう、帰る場所も、行く場所もなかった。それならせめて、別れを告げよう。
夜、ヒトシは劇場に向かった。タンホイ座の「タンホイザー」初日をひっそりと観劇し、それをあいさつ代わりにして、劇団を去ることにしたのである。

開演時間ギリギリに、一番後ろの席に滑り込んで、初日の幕が開いた。
思えば、ヒトシはこの物語の結末を知らなかった。中盤の歌合戦の場面までしか稽古に参加しておらず、台本もそこまでしか受け取っていなかったのである。舞台からはあの声が聞こえている。
「行ったのだ! 行ったのだ! ヴェーヌスベルクへ行ったのだ!
 行ったのだ! 行ったのだ! タンホイザーは行ったのだ!」
脳裏にあの日の稽古場が蘇る。「行ったのだ、行ったのだ、ソープランドへ行ったのだ」―。
そしてその後の展開を見て、ヒトシは目を疑った。タンホイザーは、巡礼に赴いたローマで聖者に救いを求めるが、こう言われて足蹴にされるのだ。

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