小説

『タンホイ座』佐藤奈央(『タンホイザー』)

「なぁ古村。オレたちもそろそろ、変わらなくちゃいけないんじゃないのか。いいモノを作ろうとして守ってきたルールを、否定はしない。でも、ルールにとらわれ、安住し、自分たちを型にはめてしまうなら本末転倒だ。世阿弥も言っただろう?『よき劫の住して、悪き劫になる所を用心すべし』」。
古村は頷くしかなかった。変革の時が来たのだ。そして世阿弥の言葉に逆らえる演劇人な
ど、この国にはいないのである。
                   ◆
真っ黒に日焼けしたヒトシが、白衣でロードバイクにまたがり、四国の町を疾走している。何としても、八十八ヶ所を回りきるのだ。今まで、何事も「ほどほど」の人生だった。「とことんまでやりきった」と、胸を張れるものは一つもなかった。しかし、もう変わるのだ。自分のために。劇団のために。そしてエリサのために。
道中で風俗店を見かけた時は、自転車を降り、店の前で手を合わせ、祈りと懺悔をささげた。
「今宵、この店で、愛のない行為の果てに、この世にぶちまけられる数億の精子たちよ。
どうか成仏してください。人間は愚かです。本当に大切にしなければならない人は目の前にいるのに、気づかず、むやみに命の素を放出します。許したまえ」
胸の中には「タンホイザー」の名曲「巡礼の合唱」が鳴り響いている。

エリサからは時折、稽古場の写真を添付した無邪気なメールが届いた。ヒトシはただ「同
行二人(どうこうににん)」とだけ返信した。遍路用語で「弘法大師様と二人連れの旅」を意味していた。
                  ◆
夏の終わり、ヒグラシが鳴く夕刻。第八十八番札所。香川県「大窪寺(おおくぼじ)」。
ヒトシはついに結願(けちがん)の地にたどり着いた。
参道を歩きながら、ヒトシは体の中が浄化されていくような気がしている。スポットライトが自分を照らすようだ。新しい人生を始められる予感がした。
この一ヶ月、心には常にエリサの笑顔があった。もう、迷いはなかった。東京に戻ったら、エリサに告白しよう。交際を認めてもらえるかどうか、2人で古村に相談しよう。

境内には、八十八ヶ所を巡り終えた人たちの、無数の金剛杖が奉納されていた。
ヒトシは万感の思いを込めて杖を奉納した。すると隣に年老いた男性が立った。陰影の濃い顔つきが、世界を知り尽くした神様のようにも見えた。ヒトシは誰に言うでもなく問いかけた。

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