小説

『タンホイ座』佐藤奈央(『タンホイザー』)

古村の、乾いた声が稽古場に響く。
「ヒトシ。10年前、ここで何があったのかは話したよな?」
劇団結成10年目に、その惨劇は起きた。主役をつとめる役者が、稽古に来なくなったのだ。風俗にハマって経済的に困窮したからだった。さらに、当時はまだ半分が女性だった劇団内で、その男を介した性病が蔓延。公演はやむなく中止された。すでに劇場をおさえていた古村は借金を背負った。以来、劇団は女子禁制、風俗禁止になった。
「オレたちは劇団を続けるために、ルールを必死で守ってきた。『自分一人ぐらい』とか『バレなきゃいい』とか思ったかもしれないが、そういう問題じゃないんだ。一人の行動が、アリの一穴になって、全体を緩ませるんだ」

どこからともなく、呟くような声が聞こえてきた。
「行ったのだ……行ったのだ……ソープランドへ行ったのだ……」
その声は、明らかにヒトシを非難していた。声に声が重なり、声の束になって襲いかかって来た。
「行ったのだ! 行ったのだ! ソープランドへ行ったのだ!
行ったのだ! 行ったのだ! 背理ヒトシは行ったのだ!」
まさかの「タンホイザー役」である。しかし自分が望んでいたのはこういうことではない。ヒトシは耳をふさいでうずくまった。それに、決して軽い気持ちであの場所に行ったのではない。自分なりに切羽詰っていたのだ。誰か助けてくれ―。

その時、一人の女性の声が、空気を切り裂いて入ってきた。
「ちょっと待ってください!」
声の主は、劇団に唯一出入りを許されている女子・エリサである。
男たちは声を止めて、一斉にエリサを見た。
「古村さんの言っていることは、確かに正しいと思います。でも、ソープランドに行くことは、法律に違反しているわけではないし、ヒトシくんをそんなに責めるのはかわいそうです。そりゃ、私だって、ソープランドに行く人と、行かない人では、行かない人のほうがいいとは思う。でも、一度行ったからといって、その人のすべてが否定されるのは違うと思うんです。現に、世間の男の人の大半は、一度ぐらいはソープランドに行くわけですよね?」
エリサは制作や会計面で劇団に献身的に尽くしてきた、マネージャー的存在だ。明るくほがらかで、皆から妹のようにかわいがられていた。ヒトシは内心、結構カワイイと思っている。そのエリサが「ソープランド」を連呼してまで、なぜかヒトシをかばっている。ヒトシは混乱の中で、再開された稽古を静かに見守った。
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