小説

『タンホイ座』佐藤奈央(『タンホイザー』)

その日の仕事を終え、ヒトシはいつもの場所に向かった。
都内の湾岸地区にある、倉庫街の一角。劇団「タンホイ座」の稽古場である。

タンホイ座は小さなアマチュア劇団である。脚本や演出をこなす座長の古村(ふるむら)ノボルは、端役ながら時折テレビドラマにも出演するプロの役者だが、それ以外はアルバイト生活で俳優を目指していたり、別に仕事を持って趣味で参加する者たちの集まりだった。シェイクスピアをはじめとする古典作品が得意分野で、年に1回、都内の小劇場で公演を打っている。青果店の倉庫を、夜間だけ間借りして、稽古場にしていた。

ヒトシとタンホイ座の出会いは、5年前、ひょんなことがきっかけだった。
当時、ヒトシには学生時代から3年間付き合っていた彼女がいた。少なくとも、ヒトシは付き合っていると思っていた。ところが「私にとってヒトシくんは特別だから、簡単にそういうふうになりたくないんだよね」などと、体よく肉体関係を回避され続けた挙句「やっぱり何か、違うっぽい」の一言で捨てられた。
雨の新宿東口。傘もささずに呆然として立っていると、声をかけられた。
「大丈夫? オレら、これから飲みに行くけど、一緒に行く?」
見ると、男ばかり、20人ほどの集団だった。

彼らは豪快に食べ、飲み、笑った。聞けば劇団員だと言う。ヒトシに事情を尋ねることもなく、まるで昔からの友人のように接してくれた。「実は彼女にフラれちゃって」と、ポツリと漏らすと、誰かが「きょうはヒトシのために朝まで飲もう」と言った。彼らの優しさが、胸にしみた。

居酒屋を出てカラオケに行った。ヒトシは酔いに任せて、中島みゆきの「うらみ・ます」に、彼女への情念を込めて熱唱した。すると賞賛の拍手がわき上がった。古村が「ヒトシ君。いいよ。上手いとか下手とかのレベルを超えてる。言葉に感情が乗ってる。すばらしいよ!」と、うなずいた。人に褒められたのは、一体何年振りだろう。そして思いがけず、その場で劇団にスカウトされた。

ヒトシは演劇など、見たこともないし興味もなかったが、数日後、古村から稽古場近くの喫茶店に呼び出され、改めて入団を打診された。

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