小説

『桃太郎異本集成』森本航(『桃太郎』)

「いや、ちょっと待ってくれ」お爺さんが言った。
「どうしました」答えるお婆さんは包丁を振り上げた体勢で、桃はまだ割れていない。
「桃から子供が出てくる、というのはどうなんだ」
「どう、と言われましても」
「流石に現実的じゃないんじゃないか」
「それを言ってしまいますか」言いながら、お婆さんは包丁を机に置いた。
「山の奥の奥にある神代の桃の木が、生命を孕むというようなことがあったのやもしれませんよ。桃は神聖な食べ物とされていますし」
 お爺さんはどこか釈然としない様子で桃を眺めている。
「それだと、話が大きくなりやしないかね」
「それは、そうでしょうけど」
「桃を食べて若返った我々が子をなす、というのはどうだろう」
「急に生々しい話になりましたね。そもそも、若返りも現実的ではないのでは」
「桃は神聖な食べ物だと言ったろう」
「はあ」
 溜息を吐くお婆さんは既にかつての若々しい姿を取り戻しており、お爺さんも爽やかな青年の姿になっている。桃は割れてその大きな種を晒し、果実の一部が欠けている。
「私は昔から疑問だったのですが」若返った声でお婆さんが言う。
「若返る、というのはつまり、細胞がどうにかなると言う事でしょう? 体の細胞が逆行していれば、脳も同様のはず。なのになぜ、記憶はそのままなのでしょうかね」
「ふうむ。たしかに」
 お爺さんの声も若返っているが、お互い口調は元のままだ。
「言われてみれば、身体は若返ったが、何というか、お前と事を交えようという気には何故かならぬな」
「もう何十年の付き合いですからね。今更、と言う事でしょう。私達はもう、色んなことを学んでいますし」
「若返っても、お互い、年を取っているということか」
「そうですね。それに、ご近所の目もある事です。これはやめにしましょう」
 桃は切られておらず、お爺さんとお婆さんは当然、そう呼ぶにふさわしい外見である。

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