小説

『桃太郎異本集成』森本航(『桃太郎』)

「桃が流れてきた、というのがそもそもいけないのじゃないかね」
「箱、とかのほうが良いのですかね。紅白二つの箱、もしくは香箱」
 机の上に、大きな赤い箱が乗せられていた。
「それだと、アイデンティティが失われはせんか」
「桃のように可愛い子供なのです」
「うーん」
「女の人が流れてきた、という筋もありますが」
 机の上には何も置かれておらず、大きな包丁は倉庫にしまわれたままであった。そして、お婆さんの背後にはすらりとした髪の長い若い女性が立っていた。
「ほう、それで」お爺さんがその女性に目を向けて言う。
「お爺さんと、この女性が子をなすのです」淡々と、お婆さんは言った。
「ちょっと、それは、ダメじゃろう、色々と」
「比較的、現実的な筋でしょう。私達は子供がいないことを悩んでいたのです。ほらこれで、お爺さんも慣用的お爺さんを脱することができます」
「そういう問題では」
 生々しいどころの話ではない。方々に問題が生じるに違いなく、物語の末代まで永劫、非難を浴び続けるか、そうなる前に消されてしまうかも分からない。
「それに、アイデンティティはどこにったんだ。箱と同じじゃないか」
「それはほら、隠喩ですよ」いっそ名前は桃子にしましょうと、本気とも冗談ともつかぬ口調で付け加えた。
「ああ」なるほど、とお爺さんは言いかけて、しかし全く合点がいかない。不満そうな顔をするお爺さんに、お婆さんはさらに続ける。
「では、彼女を養子にすることにして」
 襖を開けて、背の高い男が居間に入ってきた。
「その夫との間に、子ができたことにしましょう」
 男は礼儀正しく頭を下げた。眉が濃く、凛々しい顔立ちの好青年である。気付けば、先ほどの女が、その傍らに立っていた。
「君は?」お爺さんが問うと、男は白い歯を見せてと答えた。

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