小説

『母親』中島もらる(『交尾』梶井基次郎)

「それが案外そうでもねえんだよ。現代の男は生殖にあんまり興味がねえのさ。見てれば分かる。虫と戦う時に必死さがねえからな。玉が無くなったら無くなったでいいと考える奴も居るよ。ただ痛いのは嫌みてえだが」
 でも俺はな、玉が無くなるのは嫌なんだ、一度でいいから女を抱いてみたいんだ、と男は言った。
 祐作は自分がついさっきまで保護区内の住人であったことは告げなかった。
「ありがとう、大事に使うよ」
 男はまたもやかっかっかっと笑う。
「今使うんだよ、今」
「今?しかし今俺は寒くないぞ」
「ふっ、てめえおかしな奴だな。ホッカイロは玉の周りに巻くのさ」
 巻く?一体なんで?と祐作が聞くと、男は祐作の無知に呆れつつ説明し始めた。
「玉はな、身体の他のところと比べて1℃から2℃体温が低い。その低い体温が虫どもにとっては心地よい温度なのさ。だから玉もよく温めておくことで、虫どもがあまり近づいてこなくなる。虫たちだってなるべくならいいところに住みてえからな」
 たった1,2℃の違いでそこまで変わるもんだろうかと祐作は思いつつ、カイロをパンツの中に忍ばせた。気休めのようなものだ。

 次第に森が近づいてきて、虫たちの羽音はさらに大きくなった。
 森の上空にはカラスが飛び交っていて、アカカナキリを嘴で突いて捕食している。アカカナキリは人間にとっては凶悪な害虫だが、カラスたちにとっては貴重な蛋白源である。アカカナキリに興味があるのは、何も人間だけではない。
 祐作は熟練ハンターとは別々に森の奥へと入っていった。
 針葉樹が広がり、赤い虫たちが葉の上で乱交している。空のほど高いところでアカカナキリは雌雄交じり合い、乱交する。アカカナキリはバッタの仲間と言われていて彼らのほとんどは昼行性である。そのアカカナキリがなぜ日の傾いた夕方頃に乱交し、子孫を残すのかが祐作には今まで不思議でならなかった。しかしその疑問も今氷解した。アカカナキリの赤い体は朱色に染められた空に同化して見えづらくなっている。目を凝らしてみなければ、夕焼けはただの夕焼けに見え、美しくさえもある。夕焼けを保護色にアカカナキリたちは男たちの睾丸に突撃し、子孫を残す確率を少しでも上げているのだ。

1 2 3 4 5 6 7 8 9