小説

『母親』中島もらる(『交尾』梶井基次郎)

 夜警は祐作の名を呼び、アカカナキリムシの捕獲の準備をするようにと告げた。もうこうなってしまっては祐作も行為を中断するしかなかった。力なく両腕を垂らした祐作の脇を女はすり抜けた。女の瞳は憎悪に燃えていた。
「あんたなんて、アカカナキリに睾丸噛みつかれて種無しになればいいんだっ」
 バスローブを纏った女は祐作を一人残し、部屋を出ていった。祐作は一人めそめそ泣こうとしたが、涙は出なかった。ただ窓の外を見て、自分のすべきことを思い出しただけだった。
 既に空は真っ赤に染まっていた。夕方であった。夕空を無数のアカカナキリムシの翅が振動させていた。その不快な羽音は防音性の高いホテルの中に居た祐作の耳にも届いていた。警報が鳴り、ホテルに居た男女は祐作を除いてシェルターへと避難した。祐作は用意していた防護服に着替えてバズーカ砲を持ち、部屋を出た。
 アカカナキリムシは保護特区のすぐ近くまで飛来しているらしい。今日は予測されていたアカカナキリムシの大量発生の日で、群れからはぐれた数匹がホテルの廊下を凄まじい速度で飛んでいるのが見えた。そのうち一匹が祐作のまたぐらめがけて飛んできたのを、掌で辛うじて受け止めた祐作は、両手でこの虫を握りつぶした。
 祐作の手は真っ赤に染まった。白い泡のような卵が虫の腹から飛び出して血と交じり合っている。軍手をしていたから祐作の手が汚れたわけではないが、祐作は自分の手が汚れたように感じた。
 いよいよ俺も汚れちまったな。こいつらを殺すためだけの日々が待っているというわけか。
 祐作はホテルを出た。

その2
 アカカナキリムシは男の睾丸を住処として男の造精能力を奪う。
 この奇妙な生物はオンブバッタ位の大きさで、3日は飛び続けられる翅とエネルギー効率の良さ、さらに強靭な顎を持っている。この虫は男のまたぐらを顎で噛み切って睾丸に侵入する。
 なぜこの虫が人間の睾丸のみを住処とするのか。どこからこの虫がやってきたのか。なぜ大量発生したのか。全ては謎に包まれており、狂信的フェミニストによる男性駆逐の一手段として人為的に作られた虫でないのかという陰謀論もあるくらいだった。
 男たちはアカカナキリムシを追うことに全てを費やした。男のほとんどがこの虫の殲滅のために駆り出されたが、虫は一向に減る気配がない。
 一方で女性は男が虫を追っている隙に空席となった重要なポストを軒並み男から奪い去り、女系社会を形成していた。日本の総理大臣は6期連続で女性が勤めていた。男はアカカナキリムシを追い続ける一方で、その予算も年々削られ続けている。今では貧弱な装備でこの危険極まりない虫を追わなければならなくなった。

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