小説

『エンマの戯』谷聡一郎(『地獄八景亡者戯』)

「ひとびと、彼の死により、また、新鮮で麗かな心、持てる」
「岩面宿儺はええこと言うのぉ」
行ったり来たりしておったヤマビコの爺さんはふと氷風呂で止まってそう言った。そして助平な顔で雪女郎を見つめた。
 昨晩遅く、とある青年が死んだ。彼は修行のため山に登っておった一人の僧侶であった。彼は谷に転落し、そこで命を落とした。普通ならば、エンマが、閻魔帳を見て極楽か地獄行きかを決めるのである。しかしどうだろう。いかんせんこの僧侶は文句のつけようのない聖人であり、若かった。釈迦の教えに夢を見、森羅万象に神を見出し、胸に熱き思いを秘め、日々修行に明け暮れ人々を苦しさから救わんとした一人の青年であった。まさにこれからだったのである。無論まだ何かを成し遂げたわけではなかったが、人々からの人望厚く、青年の思い描いたその到達点は無垢で聖であった。
 そんな彼に大いなる賢者たちは期待をしておった。その一人エンマがこう言ったのだ。
「この若き志、ここで潰えるのを見逃せるワシではない。どうか諸君知恵を貸してくれ」
 そしてこの大銭湯で七柱の大いなる賢者たちが集まり論議を交わしたのである。この青年、生き返らせるべきか、否か。これが大銭湯で戦わされた論議の議題であった。かくしてしかし結論は、死して極楽行きの判決であった。この大いなる賢者たちが銭湯で半日意見を戦わせた結果であった。ひと一人の命を生き返らせるというのは大きな問題なのか。

 この時間、冥界に地獄ぐるまはそう多くは走っておらんが、一台、派手に飛ばしておるのがあった。目的地はもちろん銭湯である。羅刹4匹が韋駄天を凌ぐ速度でこの地獄ぐるまを引いておった。それは凄まじく恐ろしい光景であった。赤黒い炎を一層強くし、それを纏いながら疾走する地獄ぐるまからは、腹の底から人を震え上がらせるような轟音が聞こえてきた。炎纏う地獄ぐるまが銭湯の前についた時、まさにエンマが極楽行きの決定文を書かんとしていた。その時、地獄ぐるまを激しく突き破って、中から小ぶりの美しい竜がうねり出てきた。砕け散った地獄ぐるまの破片をよそに、銭湯の立派な唐破風屋根の玄関を突き抜け、すぐさま百両箱を番台に投げつけて風呂場へやってきた。するとその美しい竜はみるみるうちに美しい裸の女となった。澄みわたり柔らかく、豊かで、透き通るおなごであった。急いできたせいか肩で息をし、黒く長く美しい髪は逆立っておった。また彼女の目には大粒の涙が浮かんでおった。一同は目をまん丸にした。
「どうか、お願いですエンマさま。此度の人の子、どうか生き返らせてくださいまし」
 泣いた声を抑えながら、崩れるようにエンマの前に跪いた。
「おや。この竜神の娘は相も変わらず美しいのぉ。ひひ」
 その趣はヤマビコの爺さんをうならせた。

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