「あ、そろそろ寝ないと。明日も朝早いんですよ。じゃ、ボクは初対面のフリするんで、しっかり挨拶してくださいよ」
さすがに目をトロンとさせた春男は笑顔で手を振り、階段を登っていった。
この数時間で次郎の不安はおおかた解消され、二時間後、朝飯を食べている八人の前では自然体で挨拶をすることができた――。
＊ ＊ ＊
あの頃は八部屋全てが埋まっていて、活気があり、みんなでバーベキューや近くへ旅行に行ったりもしていた。当時は女子学生も三人いて、その中に鈴木小百合という女子学生もいた。二人はここで出会い、下宿を出て五年後に結婚したとの報告もあった。それから一切の連絡はなく、子供が生まれたとの報告も聞いていなかったが、下宿を何年もしていると往々にしてあること。白鶴荘から旅立ち、それぞれの歴史を刻んでいくのだ。
昨日のことのように思い出し、とても懐かしく嬉しい話ではあったが、次郎は小春に正直に告げた。
「この三月でここは畳むことにしたんだよ」
すると小春は、少し言いにくそうに言った。
父の春男は、つい先日に病気で亡くなったのだと。亡くなる前の数日は、お見舞いに行く度に白鶴荘での思い出を楽しそうに話していた。小春が推薦で東京の大学に決まったと知ったときには絶対に白鶴荘にお世話になりなさい、と言われたと。
「小百合ちゃ……君のお母さんは？ 一人で寂しいんじゃないのか？」
次郎が言うと、小春は少し驚いたような表情になり、小さく納得した笑顔で言う。
「母は……私を産んだ一八年前に、亡くなりました。出産のときに感染症を起こして、母体を取るか私を取るかで、母は、私を生かすようにと言い残してくれたんです。それから、父は一人で私を育ててくれました」
次郎と女将さんは言葉を失い、動揺を隠せなかった。
出産の報告がなかったのは、そのせいだったのか。我々に心配をかけまいとしてくれていたのだろう。そんな二人の忘れ形見の一人娘が来てくれた――ただ……。
悩む次郎だったが、白鶴荘を畳むのは、手を尽くした結果だ。銀行に融資を頼める状況でもなく、個人で借金をしても焼け石に水。物理的に無い袖は振れない。下宿人一人になっては、どう頑張っても経営はしていけない。
「小春ちゃん……本当にすまない。そんなことになっていたとは知らなかった。でも、ここを続けていくのは、やはり無理だと思う……」