小説

『桜の樹の隣には』双浦葦(『桜の樹の下には』)

 きっと、多くの人が同じ感情を抱いてきたのだろう。伊藤も同性でありながら、アパートの隣に住む男に密かな想いを寄せていた。それほどに神秘的な魅力を持った存在だった。
 ただ、これだけはわかる。あの男は、決して特別であったわけではない。
 男はごく普通の夫であり、父であった。妻を失ったショックから何とか立ち直ろうと、慣れない料理でヤケドをし、包丁で指を切り、一生懸命に娘の世話をした。事件を知って、この真実に納得する者は少ないかもしれない。しかし、わかってほしい。一人でもいいから、わかってほしい。
 これは信じていいことだ。

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