小説

『桜の樹の隣には』双浦葦(『桜の樹の下には』)

 静かな行列をつくって食道をながれおりてゆく唾が、自分のものとは思えないほどの粘りと臭気を持っているのを伊藤は感じた。
 まるで他人、いや、人間ではないものの体液のようだ。人間であるとしたら、たとえば、精液のそれに似ている気もした。望まずともあふれ出る悍ましさといい、のどを塞ぎそうな切迫感といい、そうだ。似ている。ごくり、ふたたびのみこむ。生きるためにのみこむ。
 靄のかかったような伊藤の視界の中心に据えられた男は、じっとして微塵も動かず、死んでいるかのように見えた。
 隣家の庭。いまそこに伊藤がいるのは、声が聞こえたからである。帰宅して暗闇のなか、鍵穴を探っていたときのことだった。伊藤の視力は年々低下していたが、損失補填のつもりか、聴力は人並み以上を保っていた。その伊藤の耳に、声が届いたのだ。
 たのむ、ゆるしてくれ。必死に助けを乞う、そんな言葉を捉えれば、向かわずにはいられなかった。
 携帯電話を懐中電灯代わりに、隣家をのぞく。伊藤の目にまず飛び込んできたのは、巨大な切り株だった。それが桜の樹であったことは後に刑事から聞かされた。切り株は地面から三十センチほどの高さで切断されており、まるで罠にかけられ、首だけを残して地中に埋められた巨人が、とどめにと頭を落とされた姿にも見えた。
 伊藤の目は次に、男の姿をとらえた。切り株の根元で、膝を折り、背中を丸め、こうべを地面にすりつけて、巨人に懺悔をしている。携帯電話のあかりがそのかたわらを照らすと、男はじわり、じわり、首の向きだけを変え、光源のほうを見た。感情のともらない目だった。いっぽうで、暗闇にただ一条きりの光が差し込んだような清浄さもあった。
 伊藤は口内にたまった唾をのみくだすのに苦労し、男から一瞬たりとも目を離さないように気をつけながら、慣れた指使いで携帯電話を操作した。

 雪の降らない十二月、未明。都内で一人暮らしをする大学生から通報が入った。声は、隣人が人を庭に埋めている、と告げた。自分も今その場にいる、きてください、はやく。
 異常なほどに冷静な口調であったが、精一杯に声を抑えたともとれるその通報が切羽詰まったものだということは明白であり、警察官はただちに現場へと向かった。敷地の周囲を荘厳な造りの塀でぐるりと囲まれた、重く深い歴史の感じられる一軒家が現場であった。
 門扉に鍵はかかっていなかった。後の捜査で、家屋も非施錠であったことが判明した。
 駆けつけた警察官がまず目にしたものは、ライト機能を起動させた携帯電話を手にたたずむ青年の姿であった。通報者であることを確認すると警察官は、青年の視線の先を追った。岩や切り株、そして物干し竿などが雑然と配置された庭に、上下真っ黒のジャージ姿、中肉中背の男がうずくまっている。男は新しい窒息死にでも挑戦しているかのように顔を地面に押し付けていた。

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