小説

『桜の樹の隣には』双浦葦(『桜の樹の下には』)

 そんな信じがたい説明の後、男は言った。頭を抱え、ふるえながら。
 ――桜が、娘をころしたのだ。
 巨大な切り株は、サクラの木であることが判明した。近隣で聞き込みをしたところ、たいそう長寿だったであろう木が切られたのは男が結婚をした数日後だったという。お節介な老女が回覧板を回すついでに訊ねたところ、男はこう答えた。妻が怖がるもので。尚も食い下がる老女に男は愛想笑いを崩すことなく詳細を語った。
 妻が、あの桜の樹の下で幽霊を見たそうなんです。あの桜も随分と長生きですから、宿るものもあるのでしょうね。大丈夫だと宥めて、妻も納得してくれたのですが、やっぱりそれから元気がなくなってしまって。だから、切ってしまったのですよ。たしかに勿体なかったかもしれませんが、でも、そんな理由も分からない伝統より僕は、妻の笑顔のほうが大切ですからね。
 ちゃっかりのろけちゃって、シアワセそうだったわよ。老女は不服そうな顔を見せたあと、まるで女優のようにころりと表情を陰らせた。でも、あの奥さんも不幸だったわよね。
 男の妻は、縁側から転落し、庭石に頭を強打したショックで亡くなっていた。娘が生まれて、一年が経とうとする頃だった。ちょうど畑野菜のお裾分けに来て現場を目撃した老女が抜け殻のようになった男を支え、一族の墓へ妻の遺骨をおさめさせた。
 決して明るい性格ではなかったが近所付き合いを円滑に行える程度の愛想は持ち合わせていた男も、嫁をもらってからは常に陽光に満ちて華やかだった家も、それまでとは打って変わって暗くなったという。
 しかし、それだけでは不幸は終わらなかった。遺骨が盗まれたのだ。犯人は見つからず、当然理由も判明しなかった。金目的や土葬ならまだしも、と警察は首を傾げた。不届きな墓荒らしに愛する者の形見を奪われ、男の悲哀は更に深いものとなった。
 そうして、半年。今回の事件が起こったのだった。男の娘は、地上に預けられたばかりの命を早々に天へと返還されてしまった。

 男の手には、あちこちに熱傷や、裂傷がみられた。色が白いものだから、やけにそれらが目立つ。年は三十半ばだったが、その身に重なる不幸のせいか、老けて見える。疲労の蓄積したその表情には一方で、深い人生経験から生成される色気も含まれているように思えた。調書を取りながら、男の姿を観察する。男はずっと下を向いていた。しかし正面に座る先輩が訊ねたことにはきちんと答える。肯定も否定も、男はきっぱりと行った。
 タンポポのことを思い出す。天敵の口をふさぎ、自分を食べられなくするという合理的な機構のことを考える。先輩は妄想に拘泥するなと言ったが、やはり気になって仕方がなかった。
 男は語ったのだ。なぜ切り株の横で平伏していたのかと訊ねた刑事に対して。

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