小説

『桜の樹の隣には』双浦葦(『桜の樹の下には』)

 わざと大げさに唇を尖らせ不満げな顔をしてみせるが、先輩は横目ですらこちらを見てくれない。
 たしかに伊藤を疑う理由がないわけではなかった。家屋は非施錠であったし、なにより第一発見者を疑うことは捜査の鉄則である。しかし当然、それだけでは積極的な理由にはならない。それなのに先輩は確信をもって取り調べに臨んでいた。
 皺の多い首をもたげ、立派な塀を見上げる。それは花が昇りゆく太陽を追うような滑らかな動きだったが、そんな健気な花の様子ほど先輩に似合わないものはない。
 塀の向こうは、伊藤の住んでいたアパートだ。二階建ての、この家とは違う意味で歴史を感じさせる建物。伊藤はここから一番遠い、端に部屋を借りていた。
「ふつう、アパートの隣の一軒家に住む人間を隣人と呼ぶか?」
「つまり、刑事の勘。非現実的ですね」
 途端、うなじに冷たいものが触れた。声を上げる前に、ざらざらしたものが大量に背中を流れてゆく。先輩はものも言わず、せっかくきれいにした地面から土や砂、雑草までもを掴みあげている。早急に退散するために立ち上がると、急なことに血のめぐりがうまくゆかなかったのか、目の前が白く煙った。
 耳に音が届かない。一瞬も途切れることのない視界のなかに、なにやら赤いものが舞っている。持ち上げた手に次々と貼り付くものを見るとそれはサクラの花びらだった。赤みの強い、梅かと見まごうような色をしたサクラが、自分のまわりを生き生きと舞い遊んでいる。
 あたりいちめんの春景色。その大元となるものは、首を回せばすぐ近くに鎮座していた。樹はなかば透けていて、幹のなかを眩しいほどの液体が上へ上へとあがってゆくのが観察できる。透明な地面の下には強靭な根が張っており、その更に下にあるものを覆い隠している。隙間からのぞくものは白く醜く膨張していて、しかし根から伸びる管がそこから吸い上げる液体は、光を発し、目を焼くほどに輝いていた。液体は管から根へ、根から幹へと昇り、枝を通って、やがて美しい花の養分となる。
 ぞくり、身体がふるえた。冷や汗がべとついて気持ちがわるい。男の話していたのはこれか、と思った。いまやっとわかった。
 わかってしまった。
 桜は、地下の死体から養分を吸うことで初めて見事な満開を見せるのだ。
 そんなことは知りたくない。何も見ず、何も考えずに、みんなと一緒に安心して花見の酒をたのしんでいたい。
 しかし、そうした拒絶が、男とこちらとのあいだに堅牢な壁を築くことは明白だった。桜の真実を認識しなければ、男のことも見えなくなる。それは嫌だ。わかりたい。たとえ分かり合えず、共同体にはなれなくとも、あの孤独なひとを突き放したくはないと強く思った。

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