小説

『桜の樹の隣には』双浦葦(『桜の樹の下には』)

 後頭部を掴まれ、髪を逆立てるように撫で上げられる。頭皮を直接なぶられる感触に背筋が冷たくなった。頭を振ればいつの間にか部屋から男が消えていて、ああ、取り調べは終わったのだな、と気付く。無言でこちらを見下ろす目は、この人こそが真犯人だと決めつけても誰一人として異議を唱えないような残忍な色をしていた。手はコーヒーを持っている。口はゆっくりと開いた。
「従ってみるか、捜査の鉄則に」
 返事はせず、調書を見返して該当箇所にチェックをいれる僕の、ポケットになにかが捻じ込まれる。チョコが入っていた。

 力の乏しい瞳は、装備を外すとまるで無力と化す。代わりに性能のいい耳はすべてを感知していた。斜め前で線の細い刑事がパソコンのキーを叩いている音も、正面で熊のような刑事がしきりに頭を掻いている音も。眼鏡、いいんですか。正面から訊ねられて、どうせ見るものもないので、と答えると、斜め前がそれを預かっていった。武器に成り得るからだろうと推察する。伊藤は太腿の下に両手を敷いて、靄のかかったような取り調べ室のなかを見回した。
 黙り込んでいる刑事が、伊藤の話をうまくのみこめていないようなので、例を挙げてより分かりやすく説明する許可を問う。刑事は顎で先を促した。伊藤は息を吸い、あの日のことを思い返す。何度かえりみても、合理的な行動だった。
 たとえばあれは、美術館で騒ぐ子どもを厭うようなものだ。うるさい、いまとても美しいものを鑑賞しているのだ。首を絞めたのは、たとえば止血のようなもの。傷の手前の血管を圧迫するのと同じことだ。声を止めるために、手前の管を塞いだ。
 ただひとつ、おどろいたのは、かたわらに死体が転がったその瞬間、彼が完成したことだった。隙間なく彼を覆う不幸の膜が、夢のように煌めいて見えた。わかった、と思った。
 わかった。
 信じられないほどの美しさを発するものは、その正反対のものを代償として成り立っている。これまで彼を襲った多くの不幸が、いまの彼の見事なまでのうつくしさを支えているのだ。
 わかった。やっとわかった。これは信じていいことだ。そうして自分はその不幸を更に増強し、彼を磨いたのだ。

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