小説

『主人公』あおきゆか(『機械』横光利一)

 引き戸の開け閉めだけで、要するに軽部という男はドアがあれば必ずそれを乱暴に取り扱うらしかった。
 ところで俺と軽部がドアノブ戦争をやっている合間に物語には進展があり、空き部屋だった101号室に屋敷という大学二年生が引っ越してきた。屋敷はどこぞの大会社の社長の次男坊だとかで、就職活動の必要がない気楽な身分だ。屋敷をそんな男にしたのは自分の息子がかつて就職戦線で苦労したことを思い出したくないからなのか、だいたいにおいて主人は常に現実逃避型なのである。毎年地方文学賞に投稿はしているが、平均応募数四十人中の入賞佳作の二人にもかからず、それを落ち込みもしなければ反省もせず笑いとばしている。ただし入選すれば賞金は十万円だから、専業主婦である主人にとっては意味のある収入になる。十万円で息子のおさがりのデスクトップではなく最新型ノートパソコンを買うと言っているが、機械音痴な癖にろくにマニュアルも読まず、こういうのは適当に触っているうちに覚えるのよなどと言いながらしょっちゅう画面を凍りつかせ挙句の果てにTVを流し見しながら四時間かけて書いた五百文字の文章を消失してしまう。それで本人はけらけら笑っていられるのが狂気だが、書かれるこちらはたまったものではない。あるときなど、土砂降りのなか轍にはまった車を持ち上げるシーンがすべておじゃんになり、車関係の知識にとぼしい主人はこのシーンをさっさとカットして、かわりにカビキラーで風呂場のタイルを二時間もこすらせ貧血になりかけた。だが、おのれのつたない文章がキーを押した先から美しい明朝体になり決まったピッチで整列していくのを見てしまうと、もう手書きには戻れないようだ。とくに、主人のような素人には。最初のうちはうれしくて一枚も書けばいちいちプリントアウトしていたが、さすがにインクの減りが速すぎて主人のご主人、つまり夫に叱られてからある程度めどが立つまでは印刷してはならないという決まりができた。本当のところ十万円で温泉旅行に行きたいのだが、温泉なんぞに行っても疲れるだけだという夫を説得する話術もなく、どのみち入賞するはずがないのだと言ってまた自虐的な笑みを浮かべる。

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