小説

『主人公』あおきゆか(『機械』横光利一)

 しかし軽部の問題はドアノブだけでなく共有スペースにも派生してきた。共有スペースというのは二階の通路に設けられた六畳一間程度の広さの物干し場のことで、日当たりがよくベランダもひろいこのアパートの住人は誰もここに洗濯ものを干さないのだが、少し前からこの場所に古びたスーツケースだのゴミ袋だのが出されるようになったのである。いったい誰がそんなことをするかというと、ここがちょうど軽部の部屋の目の前に当たっている以上、犯人は軽部しかいない。もしほかの誰かがそんなことをしたら、あの男は絶対に許さないはずだからだ。半年前、俺がここに越してきたとき軽部の部屋にタオルを持って挨拶に行き、ドアの向こうに神経質なまでに整理整頓された部屋を見たことがある。磨きこまれたガラステーブルの上には、みっつのリモコン(おそらくTVとビデオとエアコン)が等間隔に、オブジェみたいに右斜めに向けて置かれていた。軽部はまるでそれを見せつけるようにしてドアを全開にしたのだった。潔癖症な人間には、自分の陣地以外は汚れても一向構わないし、陣地を清潔に保つためには多少のルールは無視していいと思っている輩がいる。軽部はまさにそのタイプで、以降も共有スペースにはゴルフバッグだの、壊れた加湿器だの、UFOキャッチャーでしとめた大量のぬいぐるみの入ったビニール袋だのが置かれ続けた。そのせいかどうか、共有スペースの、風呂の蓋のようなプラスチック板が渡されている床部分には少しずつ緑ゴケが生えだしていた。
 軽部に仕事を与えたり性格をつくりあげたりするのは主人の仕事だが、それによって生まれる匂いや音というのは、案外主人は知らなくて、だから余計に始末に負えない。パン屋が閉店するのは午後七時で、軽部はそれから片付けと翌日の仕込をすませて八時近くに店を出て、近くの吉野家かラーメン屋で飯を食って帰宅するのが午後九時過ぎになる。すぐに風呂に入る音が聞こえてくるが、それ以降は静かなのでイヤホンをしてネットでエロ動画を見たりゲームをやっているらしいのは、主人の筆によるところだ。部屋の中での生活を描写しようと、がんばってエロ動画のくだりを入れたものの行き詰ってしまい中途半端さが残る場面だった。部屋から聞こえるのはシャワーとトイレの水音、それから台所と居間をしきっている曇りガラスの

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