小説

『主人公』あおきゆか(『機械』横光利一)

 あたらしい小説は主人によればこわい話だそうだ。こわいという感覚は普遍的で、どの国の人でもどんな偉いで人もこわい話を聞いた後にドアがぎいっと鳴ったらこわくなって振り返るはず、というのがこわい話を書こうと思ったきっかけだという。俺が主人公をゃることになったのは、いつぞやの小説で深夜ぶつぶつと不気味なひとり言を吐く浪人生をやった流れらしいが、要するにすべてはたわいもない思いつきなのである。
 あいつにそんな話書けるわけないじゃん、とAは言いながら私をちらりと見た。こわい話には男三人しか出てこない設定で、いちおう近所に住む強欲婆というものがいるらしいが物語の本質とはかかわらないアクセントだ。以前なら私がやっていた役である。ちなみに言っておくと私たちに老若男女の区別はない。
 ところで私はこの小説の中で「俺」という一人称を与えられたので、ここからは俺になろうと思う。俺には今のところ名前がないのだが主人は名前を考えるのも適当で、いつも近所の表札を見て決めているからしょっちゅう同じ名前が出てくる。それでもせっかく主役になったのだから名前を決めて欲しかった。もう一人は軽部というが彼は駅前の大きなパン屋で働いていていつかは店を持ちたいと思っている。これをやるのがAだ。三人目はまだ出てこないし決まってもいない。軽部は仕事柄朝が早く、毎日午前四時前にアパートを出ていく。その際、ドアをばたんとやや乱暴に閉める。その時刻だとほかの住人だってまだ寝ているはずで、仕事だから仕方ないがもう少し静かにドアを閉めることはできるのではないか。反動でノブが回らないように最後まで手を離さないようにすれば、あの不快なガチャンという音も濁点のつかない「かちゃん」程度にはなるはずなのだ。軽部にはそれがわからないのか、そんなことはわかっているけれどやる気がないのか。
 アパートは全部で六部屋あり、軽部は二階端の201号室、俺の部屋はその隣の202だ。とくに音が響くのは俺の部屋と真下の階だが、その101号室はずっと空き部屋らしくいつ見てもポストに同じ色あせたチラシがぎゅうぎゅうにつまっている。駅から徒歩十八分、築十五年の物件じゃあなかなか借り手は現れず、チラシを取り外さない大家も半ばここを見放しているという気がして、ドアノブの使い方を注意して欲しいなどと瑣末なことを言うのもしり込みしてしまう。いやどちらにしてもそんなことを勝手にするわけにはいかないのだ。俺は今主人公なのだから。

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