小説

『笛吹き男のコーダ』木江恭(『ハーメルンの笛吹き男』)

 血と泥と涎で汚れた碓氷の顔に、すずは躊躇いなく触れてくる。その手に見慣れた鈴はなく、剥き出しの手首は無防備で今にも折れてしまいそうだった。それでもその肌は滑らかで、怪我をしている様子は無い。
 生きてる、と当たり前のことを呟こうとして、唇がびりっと破れた。全身という全身が悲鳴をあげているのに、この程度の傷さえも律儀に痛む。
 てっきり命を取られると思ったが、詰まらぬ若造の命など、取ったところで割りに合わないと勘定されたのかもしれない。悪党にまで返品されるとは、全く本当にどうしようもない人生だ。
 碓氷は腫れた瞼で狭まった視界をぐるりと眺めた。群青の空の向こうが、紫と橙を混ぜたような不思議な色合いに変わっている。すずの小さな体を、金色の光が縁っている。
 朝が来るのだ。
 全てを失ってまるで襤褸切れのようになっても、朝は来る。
 碓氷はぼんやりとすずを眺めた。血の気のない頬を雫が伝っていく。あとからあとから溢れる涙がぼたぼたと落ちて、温い飛沫が碓氷の頬にかかった。
 綺麗だ、と思ってから、そんな感覚がまだ自分の中に残っていたことに碓氷は驚いた。聴覚を失ってから、何かを美しいと思ったことなど無かったのに。
 今はただ、すずの涙を見ていたい。
 碓氷と目が合ったすずが、泣きながら笑う。碓氷は震える指をそっと伸ばした。

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