こんなことなら、初めからこれを使って逃げればよかった――いや違う、そもそもすずを連れて逃げたりしなければよかったのだ。しかし碓氷はやはり、頼りなげに寄りかかってくる体を押しのけることが出来なかった。
不十分な呼吸で頭は揺さぶられたように眩み、指先は痙攣している。それでも何とか笛を唇に当てた時だった。
するりと伸びたすずの手が、碓氷から黒笛を奪い取った。
すず、と思わず呼びかけた碓氷の鼻の先で、すずは手首の紐を器用に口で外し、黒笛に結びつけた。結び目を確かめるように、笛を数回振る。りんりん、と軽やかな幻聴が碓氷の耳を打つ。
そしてすずは、それを急斜面に放り投げた。
碓氷の唯一の武器が、底知れない闇へ飲み込まれていく。
碓氷は息を呑み、すずの体を突き飛ばすようにして立ち上がった。早く拾いに行かなければ、と足を踏み出した瞬間、視界の端に動くものを認めて、咄嗟に体を幹に押し付ける。
細い月明かりを浴びた潅木が大きく揺れて、組織の男が二人現れた。どくどくと煩く鳴る心臓を抑えようと、碓氷は胸に当てた拳に力を入れる。
しかし男たちは周りを見渡すことも無く、一目散に斜面の方へ駆けていった――黒笛が飲み込まれていった闇の底の方へ、何かに導かれるように。
碓氷は呆然として、そしてはっとすずを見た。すずも碓氷を見上げ、少し微笑んだあと、はやく、と唇を動かした。
弾かれるように、碓氷はすずを抱え上げて走り出した。
りんりん、と、聞こえないはずの鈴の音が碓氷を急かす。碓氷がすずを連れている間、追っ手にだけ聞こえていた道標。己の居場所を教えながら逃げ回る間抜けな獲物だと、奴らは嘲笑っていたに違いない。それを逆手に取ったあの囮の黒笛に彼らが気が付き激怒するまで、あとどれほど猶予があるだろうか。
長い闇を越えてようやく山を抜け、鈴虫庵のあった寂しい平地へ辿り着く。碓氷はすずを下ろし、膝に両手をついて蹲った。肺も足も腕も、とにかく全てが限界だった。
すずが碓氷を覗き込んで袖を引く。いそいで、と唇が震える。わかっている、だが足が動かない。よろよろと首をもたげると、すずの小さな頭の後ろに、明かりの灯った町並みと黒々と横たわる川が見えた。
冷水を浴びせられたように、碓氷の熱は冷めた。