シャワー室の扉の前を男は軽く3周し、深呼吸をした。扉に耳を付けると、中からシャワーの音が聞こえてくる。少女は絶対に開けないでくれと言った。それはつまり、絶対に開けろということだ。それくらい俺にも分かる。要は、お笑い芸人の熱々おでんと一緒だ。俺には開ける権利があるのではなく、義務があるのだ。
ゆっくりとドアノブを握った。手は妙に汗ばんで、少し震えていた。
よし、いくぞ。
「ガチャッ。お湯加減いかかですかーーー!」
勢いよくドアを開けた先に、少女の姿はなかった。シャワーの音が、浴室に響いているだけだった。男は何が起こったか分からず、その場に立ち尽くした。しばらくして、ハッと気付いたうように浴槽の中やトイレの中を探し始めたが、どこにも少女は見つからなかった。
部屋の中を一通り探し終え、疲れてきってベッドに腰掛けると、興奮が冷めていくのを感じた。もしかしたら少女はマジシャンで、しばらくしたらまた戻ってくるかもしれない。今この瞬間も俺の慌てふためく様子をどこかで見ていて、清らかに笑っているのかもしれない。きっと戻ってくるだろう。
追い打ちをかけるように押し寄せてきた眠気が思考を停止させ、投げやりな気持ちにさせた。長い1日の果てに、男は久々の深い眠りについた。
休日なのに午前9時という比較的早い時間に目を覚ましたのは、携帯の着信音のせいだった。1回目の着信は無視したが、切れた瞬間2回目の着信が鳴り始めて渋々電話を取った。
「もしもし、おはようさん」
能天気な母親の声だった。
「おはよう。…なに、どうしたの」
男は不機嫌そうに答えながら、重い身体を起こして周りを見渡した。そっか、昨日はホテルに泊まったんだっけ。それであの子がどこかに消えて…
「どうしたの、じゃないでしょう。あんたのとこ、昨日まですごい台風来てたでしょう。大型でしかも直撃だったからお母さん、心配してたのよ」
台風が来てたからあんなに雨風強かったのか。会社にこもりきりで、そんな世間一般の出来ごとさえ知らないでいた。今更だと思ったが、テレビをつけた。