小説

『恩返し』池上夏紀(『鶴の恩返し』)

 終電なんかとっくに過ぎてしまった。横殴りの雨が、通りの木々を激しく揺らしている。傘を両手で握りしめた男が、恨めしそうに駅の改札を睨みつけて、やがて通り過ぎた。
 前が、見えない。
 現時点で雨風が強すぎて目を開けていられないし、自分の将来に関しても先は見えなかった。俺はどうしてあんな会社に入ったんだろう。毎日残業続きで、10連勤を越えたあたりからカウントすることを止めた。今で言うところのブラック企業じゃないか。明日…、いや今日は久々の休日だというのに、家にさえ帰れていない。いっそ辞めて、田舎に帰った方が楽になれるのかもしれない。
 ぐだぐだ考えていると、遠くから靄のかかった白い光が見えた。白い光は大きく渦を巻きながら男に近づいてきた。あれは一体何だろうか。火の玉などのそういう類のモノだろうか…。繁華街の外れにあるこの通りには男以外の人がいないため、余計に不安が募る。白い光がいよいよ男にくなると、その白い光の渦は次第に形を作り始めた。細長い円、更に時間を掛けて小柄な白いワンピースを着た少女へと形を変えた。男が呆気にとられて立ち尽くしていると、少女はぴったりと男の目の前で歩みをとめた。遠くからでは分からなかったが、顔は堀の深いはっきりとした顔立ちの美少女だった。それでいて、肌は透けるように白い。最も不可解なことは、この豪雨の中で少女は傘を持っていないことだった。しかし少女は、自らが放つ光と熱気によって、雨風をことごとくはじいていた。
 男は恐る恐る口を開いた。
「あの、どうかされましたか」
 そっと、少女の顔を見た。しばらくの間が空いて、
「駅を探しているんです。電車に乗って、北に行かなければなりません」
 透き通った少女らしい声だった。
「電車、ですか」
「そうです。電車です」
「この時間じゃ、もう電車なんて動いていないよ」
「では、どうすればいいのでしょうか」
「俺に聞かれても…。朝まで待てば、電車は動くよ」
 当たり前の回答に少女は無反応だったので、それでは、と男は歩き去った。だが少しも歩かないうちに少女のことが気になって振り返った。雨の中、傘もささずに立っている少女を見ると、何故か自分が悪いことをしたような気になった。足早に彼女の元へ戻り、後ろから傘を差した。

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