小説

『恩返し』池上夏紀(『鶴の恩返し』)

 男の様子をくみ取ってか、少女は
「でもすごく美味しいです」
 と笑顔で付け加えた。おつまみの枝豆や唐揚げが出てくると、決まって少女は男が先に手を付けるのを待った。その後、男とまったく同じ動作で食べた。少女はなにを食べても目を大きく見開いて美味しそうに微笑んだ。その様子を男はうっとりと、花でも愛でるような目で見つめた。
「君は、どこに住んでいるんだい。親御さんと一緒に住んでいるなら、今頃心配しているんじゃないか?」
「私は、どこにも住んでいません。常に移動しているから。」
「旅でもしているの?ああ、だから電車に乗りたがったんだね」
「日本の移動は電車が1番いいですね。時間は正確で、新幹線はとっても早くて便利」
「そうだね。終電が早いのが玉に傷だけど」
 2人で笑いあった。男には、この少女の不可解な部分などもはやどうでもよくなっていた。彼女に親は無くて、旅人で、可愛い。それ以外に何が必要なのだろう。彼女の笑顔に仕事の疲れも癒されていく。料理を黙々と食べていた少女は不意に困ったように顔を上げた。
「ところで、私はあなたにどうやって恩返しをすれば良いのでしょう。お仕事で疲れている時にこのような場所まで連れてきて私を楽しませてくれて。言葉だけでは返せません」
「なんだ、そんなことか。いいんだよ、君が笑ってくれるだけで恩返しだ」
 よくもまあこんな歯の浮いたセリフが言えるものだと男は心の中で苦笑した。この少女の不思議な力で、心に浮かんだ言葉を素直に口に出してしまう。しかし、その後も少女の口から「恩返し」という言葉は度々出てきた。その度男は同じように断った。
 2人のビールが3杯目に突入した頃、男は完全に酔っぱらいになっていた。少女の顔も赤らんではいたが、男ほどではなく、延々と話し続ける男の話を昭和の良妻のごとく聞き続けた。男は最初こそ仕事の愚痴や日本経済に対する苦言などをこの少女に偉そうに話していたが、やがて涙腺が緩み始めて埼玉の田舎に残した母について話し始めた。
「ヒック…うう、どうしても実家の農家継ぎたくなくて…、家出たくて堪らなかったんだよ。だから大学でたら普通の企業に就職して、それで、あれこれ転勤して今は九州。あんときゃあ親父はもう勘当する勢いだったね。なんせ後継ぐって大嘘ついて農学部行ったんだもんな。あはは。でもおふくろは、応援してくれてたんだ。でもそれが俺には重くて、後ろめたくてさ。電話掛けてくれても忙しいふりしてすぐ切っちまう」
「ご両親は今も、埼玉のご実家にいらっしゃるのですか?」

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