小説

『恩返し』池上夏紀(『鶴の恩返し』)

「知らなかったよ」
「そんなことも知らないでよく生きていけるわねえ。母さん感心するよ。それよりあんた、大丈夫だったの?」
「俺の心配するより、そっちのボロい家心配した方がいいんじゃねーの。北上するんだろ、台風」
 少女は戻ってきてないのだろうか。話しながら、シャワールームを確認してみる。
「そうなのよ。この家ももう、あんな大きいの来たんじゃ駄目かもねって。お父さんと避難所行こうかって準備してたんだけど」
 テレビではレインコートを着たレポーターが必死の形相で波の高さを伝えている。
「でもビックリしちゃった。確実に来るって言われてたのに、結局逸れたでしょう。あんな台風来てたら、今頃あんたの帰る家は無くなるところだったんよ。半壊じゃすまなかったわ。分かってる?」
 …以上、香川県の今の状態をお伝えしました。列島を直撃している大型の台風は、ゆっくりと勢力を保って九州から只今四国へ。
 男は、少女を探すのを止めた。今彼女がどこで何をしているのか、分かった気がした。
「あんた、大学まで行かせてあげたんだから、お父さんとお母さんに恩返ししなさいよ。家を建て直す資金とか融通してくれてもいいのよ?」
 そうか。
 男は、少女を探すのを止めた。今彼女がどこで何をしているのか、分かった気がした。
「俺もいつか2人に恩返しするよ。…彼女がそうしたみたいに」
「あんた彼女出来たの。もしかして今一緒にいるの?」
 後半は何故かひそひそ声で話しだした母に、男はプッと吹き出した。
「はは、そんなんじゃないよ。それにもうここにはいない」
「逃げられたの。連れ戻すぐらいしなさいよ。お母さんが若い頃お父さんは…」
「だから、そんなのじゃないって」
 窓を開けると、昨晩の雨が嘘だったかのように空は晴れ渡っていた。
「今頃ゆっくり電車で移動して、四国でうどんでも食ってるよ」
 部屋には温かな風が吹き込んで、男の気持ちを優しく、少し寂しくした。

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