小説

『恩返し』池上夏紀(『鶴の恩返し』)

 もちろん2人分の部屋を取るし、安心して欲しい、という身も蓋もないフォローを用意したところで、
「いいのですか?ありがとうございます」
 と屈託のない笑顔で少女が微笑んだ。
 もしかしたら、この少女は人間の欲望や汚い部分など知らないのかもしれない。だとしたらそれは少女自身そういうものを持ち合わせていないからだろう。男は、巨大に膨らんだ下心という風船から静かに空気が抜けていくのを感じた。

 ビジネスホテルの1部屋をツインでとった。ダブルにしなかったのは男の良心の為で、2部屋にしなかったの手放しきれなかった期待と、単に経済的にもったいないという理由だった。少女はお金を全く持っていなかった。そもそも男は少女に1円だって払わせるつもりはなかったが、居酒屋やホテルでのお会計の際、キョトンとした顔でやり取りを見つめていたのだ。
 カードキーを差しこみ、部屋のドアを開けた時、オレンジのライトに照らされたベッドが見えた。部屋は狭く、ベッドとシャワールームを備えただけのシンプルなもので雰囲気など皆無だったが、嫌でも男の胸は高鳴った。10歳は年下であろう限りなく美しい少女とホテルの1室にいるのだ。仕方のないことだろう。
「シャワー、お先にどうぞ。俺は後ででいいから。着替えはそこにホテルのパジャマがあるから」
「ありがとうございます。私、これまでのあなたから頂いた全ての善意を、どうして返したらよいのか分かりません」
「はは、また恩返し?いいから入っておいで」
 笑顔で頷き、パジャマを手にシャワー室へ入ろうとした少女は、ふと振り返って
「絶対、扉を開けないで下さいね」
 とはにかんで男に告げた。恥じらいの様子に、これは世間で言うところの「フラグ」なのかと考えた。
「そんなこと言われると、開けたくなっちゃうなあ」
 鼻の下は伸びきっている。
「駄目です。絶対に覗かないでください」
「うんうん。ぜーったいに覗かない」
「絶対ですよ?」
 少女は最後にひと押しして、男の目を見て微笑みながらシャワールームのドアをゆっくり閉めた。少女から流れてきた目が、男を誘惑した。

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