小説

『いつか、そこに咲いていた花』村越呂美(太宰治『あさましきもの』)

 鏡子がそれを本気で言ったのか、それとも岸田を戒めるために、わざと欺かれている振りをしていたのか、いまだに岸田は聞けずにいると言った。
「私はずいぶん恥知らずな人間で、面子にこだわったことはないけれど、あれはきつかったなあ。あんなに恥ずかしかったことは、生まれて初めてでしたよ。あの時、鏡子がちょっとでも疑ってくれたらね、ごまかして、言い訳して、また同じことを繰り返すこともできたんだけど、いや、もう、あんなのはこりごりです。それ以来、酒は飲んでいません」
 岸田はそう言って、うつむいた。その顔が本当に恥じ入っているようで、私は少しだけ岸田という男に好感を抱いた。恥ずかしいと思う感覚というのは、その人を映すものである。私は岸田が人に好かれる本当の理由がわかった気がした。
 それからしばらくして、私は美術誌の編集部に異動になり、レストランでの食べ歩きをすることはなくなった。だが時々、岸田とは目黒川沿いのイタリアン・レストランで食事を共にした。
「瀬戸さん、たまにはうまいもの、食いに行きましょうよ」
 そんなふうに岸田から誘われるとなぜか断れず、父親ほども年上の男に、飯をおごるはめになるのだった。
 三十を過ぎて、私は五年間つきあっていた女性と結婚し、出版社を辞めてゲーム会社に転職した。結婚を機に転居して中目黒から足が遠のくと、岸田とはそのまま自然と疎遠になった。
 最近、仕事の打ち合わせで、久しぶりに中目黒に行った。イタリアン・レストランのあった場所の近くだと思い出し、仕事の帰りに寄ってみた。
 そこにはすでにレストランはなく、大型チェーンのカフェができていた。
 それでも私は今もはっきりと覚えている。そこにかつて、きれいな花が咲いていたことを。そして、その花をともに眺めた人のことを。

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