小説

『いつか、そこに咲いていた花』村越呂美(太宰治『あさましきもの』)

 岸田はそう言って、恥ずかしそうに笑った。彫りの深いハンサムな顔立ちと豊かな黒髪のためか、岸田のルックスは若々しく、肝臓病の五十二歳には見えなかった。
「医者からは、このままじゃ肝炎になるのは時間の問題、酒を飲み続ければ肝硬変になって命の危険があると言われました。でもね」
 酒をやめるくらいなら、死んでもいいと岸田は思ったと言う。
「さっきも言いましたけど、まあ、私の人生なんて、惜しむほどのものでもないんです。名刺には代表取締役なんてたいそうなことを書いていますけどね、私と事務のアルバイトの女の子二人だけの会社です。いや、会社というのもおこがましいな。使いっ走りに毛の生えたようなもんです。ちょっとした宴会の手配や、人の紹介、そんなことでなんとか食いつないでいます」
 それでも、岸田は人生を十分楽しんでいた。
「私はね、昔から人には恵まれているんです。技術も資格もないのに、こうやってこの年までやってこられたのは、人とのつきあいがあったからですよ。あいつと飲むと楽しいから、何かあれば声をかけてやろう。そういうので、私はやってきた」
 しかし、酒の誘いを断るようになったら、もう自分には生きている値打ちはひとつも残らない。岸田はそう言ったが、私にはそれもまた、こういう男にありがちな言い訳に聞こえた。きっと岸田には、それまでの生活を改め、節制する自信がなかったのだろう。
「だからね、鏡子と知り合わなかったら、私はもう一年も前に死んでいたと思いますよ」
 鏡子、というのは、岸田が担ぎ込まれた病院の看護師だった。そして彼女こそが、岸田の妻となった女性だ。
 退院前夜、鏡子から好きだと打ち明けられたのだと、岸田は照れながら言った。整った顔立ちがくしゃっとなる、惜しげもない笑顔。こういうのに女は弱いのだろうな、と苦々しく思ったのを覚えている。
 女に好かれるのに慣れている男によくあるように、岸田は彼女の好意をすんなりと受け入れた。入院して収入が途絶えていた岸田は、彼女のアパートに転がり込み、半年近くヒモのような生活を続けたと言う。
 鏡子は三十六歳で、地味ではあるが清楚で感じの良い顔立ちをしている。それに堅実な性格で、そこそこの金も貯めていた。岸田のような男にとって、これ以上理想的な女性がいるだろうか?
「自分で言うのもなんですが、私は女性には好かれる方なんです。その日暮らしみたいな生活をしていても、楽しくつきあう女性はいつもいました。しかも、私のような男とつきあってくれる女というのは、たいてい良い女なんです。姿かたちも人並み以上で、しっかりした性格で、経済的に自立している。そういう人が多いんです。不思議でしょう?」

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