小説

『いつか、そこに咲いていた花』村越呂美(太宰治『あさましきもの』)

 鏡子との約束は、あっさり破られた。岸田は酒を飲むようになった。さすがに岸田も後ろめたさは感じていた。その後ろめたさから、浮気をした。まったく、しょうがない男なのだ。鏡子はまっすぐな嘘のない女だ。その女とのたったひとつの約束さえも守れない自分が情けなかった。岸田は鏡子の前に立つと、彼女の名前の通り、曇りひとつない鏡の前に立たされるようないたたまれなさを感じた。そこに映し出されるのは、だらしない五十男の醜態だった。
 岸田が酒を飲み始めたことが、鏡子の耳に入るのに時間はかからなかった。ある日、岸田が家に帰ると、鏡子がこう言ったのだ。
「今日ね、平井さんがうちの病院に来たのよ。人間ドックですって」
 平井というのは、岸田が二十年来世話になっている男で、酒に誘われればふたつ返事で応じていた。
「ばれたと思いましたよ。ああ、いよいよ終わりだって」
 いくら岸田が図々しいとは言え、これはさすがにまずいと思ったそうだ。たとえ許してくれなくても、謝るしかない。そう思って岸田が口を開きかけた時、鏡子は予想外の反応を示した。さも、おかしそうに、くすくすと笑いだしたのだ。そして、
「平井さんったらね、おかしいの。私を驚かそうとして変なことを言うのよ」鏡子はおかしくてたまらない、というふうに言った。
「変なことって?」岸田はおそるおそる聞いてみた。
「あなたがね、お酒を飲んでいるって言うの。奥さんのおかげで、岸田もまた酒飲みに戻れて良かったね、ですって。そう言うと私がびっくりするって、あなたが教えたんでしょう?」
 鏡子はそう言ってまた、楽しそうにくすくす笑った。
「それ、本当だって言ったら、お前は俺にうんざりするか?」
 岸田が言うと、鏡子はますます楽しそうに、
「やだ、あなたまでそんな真顔で、私をだまそうとして」と、言って、笑った。
「どうして、お前は嘘だって言い切れるんだ? 俺みたいな男だったら、お前に隠れて酒を飲むかもしれないと思わないのか?」
 岸田は半ばやけになって、鏡子に詰め寄った。鏡子は鏡のようなまっすぐな視線で岸田を見つめ、こう言った。
「だってあなたは私に誓ってくれたんですもの。私と一緒になりたいから、もう二度と飲まないって。でしょう? それなのに、飲むわけないわ。だからもう、そんな嘘をついたって無駄よ」

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