小説

『いつか、そこに咲いていた花』村越呂美(太宰治『あさましきもの』)

 だからこそ、私は新しい店のオープンを心から祝いたかった。そして、たとえそれが一年限りであっても、そこに確かに美しい花が咲いていたことを、雑誌の記事というかたちで残すことに、使命感のようなものを感じていた。
 会社の経費で店を訪れる時には、一人で行くことに決めていた。他の編集者は、接待を兼ねて関係者を誘うことや、友人や恋人をともなうこともあるようだったが、私は取材をする時には、一人の方が気楽だった。
 だから、そのイタリアン・レストランに行った時も、私は一人だった。
 覆面審査員のように思われるのが嫌で、私はいつも店に入るとすぐに給仕の者に名刺を渡し、来訪の目的を伝えることにしていた。
 テーブルに案内してくれた店員に名刺を渡し、
「差し支えなかったら、こちらを紹介させてもらえないかと思ってうかがいました」
 と、言うと、まだ慣れない様子の若い店員は急いで奥に入り、オーナーシェフを呼んできてくれた。挨拶に出来てきてくれた奥井という名のシェフは、陽気な男で見事な巨漢だった。
「いらっしゃいませ」
「すみません。騒ぐつもりはなかったのですが、黙っているのも失礼かと思いまして」
 私が恐縮すると、奥井は感じの良い笑顔で、とんでもないと言った。そして、できれば店のおすすめ料理を試食してみてほしいと申し出てくれた。
 奥井シェフは、巨漢にふさわしいオペラ歌手のような豊かな声で、私に食べて欲しい料理の名を挙げた。
「まず、自家製のソーセージと生ハム。これは埼玉の雑木林で特別に育てた豚で作ったものです。冷たい前菜は真鯛のカルパッチョ、明石の鯛です。温かい前菜はオマール海老のスープ仕立てがおすすめです。パスタはホタルイカと菜の花のリングイネ、手打ちの生パスタです。ああ、生ウニの冷製パスタも食べていただきたいな。メインは山形牛のロースト、つけあわせは山菜のフリットです。いさきのハーブ蒸しも食べていただけるといいんですが」
 このままではメニューにある料理が全部運ばれてきそうで、私はあわててシェフを制した。
「ちょっと待って下さい。残念ですが、とてもそんなには食べられないし、お支払いはきちんとさせてください」

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