小説

『きのうの私』まやかし(『ドッペルゲンガー』)

 隣で横たわっているもう一人の私を触ってみる。頬をなでるとひんやりと冷たい。しかし、死んでるわけではない。自分のほっぺたと比べてみても、変わらないほど柔らかい。しかし生きてるわけでもない。部屋着は二階のベランダに干されているものとおんなじだ。ポケットに入っているスマホと同じものを握っている。
 固く握られた手のひらを無理やり広げて、スマホを奪い取り電源ボタンを押すと、昨夜けんかした友人からのメールが開かれていた。たわいもない冗談を言い合っていたのに、ちょっとした誤解があって揉めてしまったのだ。
 面と向かって話をしないと、しばしばこんなことに遭遇する。簡素な文面は冷たい言葉と思われる。そんなことはわかりきっていたはずなのに、きのうはむきになりすぎた。私はごめんと返信して、そっとその手に握らせた。
 外を探せばまだ見つかるかもしれないと思いつく。きのうの私をそのままにしておいたら、母は卒倒するだろう。ドッペルゲンガーの口元が少し緩んでいた気がしたので、砂をかけて埋めてやった。久しぶりに自分の頭で考えて、自分の好きなようにした。なんだか胸がすっとした。
 麦わら帽子とシャベルを手にとって家を出る。どうにも不審な出で立ちだ。いや、私にはドッペルゲンガーを探す使命があるのだ。細かいことを気にする必要はない。
 家の前にある市が管理しているグラウンドでは、休日になると少年野球のチームが練習していて、チームメイトの親たちが周りを囲んでいる。深い緑のフェンスに覆われたグラウンドに、白いユニフォームを着た少年たちが駆け回っている。なんとなく、かごの中の小鳥に見えた。さすがにここに割り込むわけにもいかず、土のある場所目指して歩いて行く。
 就職してからひと月もしないうちに終電で帰るようになった。給料を使う暇はほとんどないから、半年もすれば貯金に余裕ができる。心の余裕を優先して家を借り、少しでも長く眠るというささやかな幸福を手に入れた。
 数年も経てば、ある程度のことは嫌でも任される立場になる。すればするほど増えてゆく業務にも、諦めに似た納得をした。やりたいこととやれることの見極めができるくらい、大人にはなった。休みもろくに取れない仕事で、割に合わないサービス残業のことを考えると給料は安いものだ。
 会社を変える勇気はなく、不平不満を溜めながらずるずると続けている。せっかくの休日はくたびれて何もできずに浪費するから、そもそも転職活動なんて考えることさえできない。自分自身と向き合わないことへの苛立ちが募る。それでも何もしようとしない。言い訳を飲み込むことだけが上手くなる。

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