小説

『きのうの私』まやかし(『ドッペルゲンガー』)

 母に連れられて行ったピアノ教室。二人の姉は通い続けていたのに、私はすぐに行かなくなってしまった。末っ子で甘やかされてきたせいか、とにかく私は習い事を続けられない子供だった。いくつも習い事教室に行ってみるものの、すぐにわがままを言って辞めてしまう。
 大人になってからピアノを弾きたくなった私は、無理にでも続けさせられていればよかったのにと思ったこともあった。会社に勤めながら新しいことを始めるには労力がかかる。根気がいる。ちょっと練習できても、忙しくなると触ることもしなくなる。そうやって何年も、不満足な現状を維持することしかできない。
 小さなドッペルゲンガーを見ていたら、今度はもう少し粘ってみようという気持ちが湧いてきた。ここでも見つけ出せたのは私一人だった。ドッペルゲンガーは自分にしか見つけられないのかもしれない。
 この子をここに置いていくわけにもいかないから、元の場所に埋めることにした。お気に入りの場所だった、ベンチの裏。私たちの周りの掘り跡にも、どんどん砂を戻していった。私はなんだか胸がいっぱいになった。ぽっかり開いた穴も塞がった。
 シャベルをかついだおかしな格好でも、春の陽気に当てられて気分がいい。太陽が真上にきて背中が暖かい。空気を思いっきり吸い込むと、体の内側から清潔になっていくようだ。懐かしい家並を眺めて歩いていると、道路沿いの畑だったところに、新築の一軒家がいくつも建っていた。
 畑の奥には牛小屋が一棟あって、通るたびに獣のにおいのする場所だった。白い外壁の二階建て。屋根の色は濃い群青。おんなじ格好の家が一つ二つ、三つ四つと並んでいる。真新しい家々に洗濯物が干してある。ぽかんと口を開けて見る。
 ぼう然と立ち尽くしていると、黒のワゴンが止まった家から人が出てきた。見知らぬ男と目が合った。会釈をするのもおかしいし、目を伏せてそそくさと通り過ぎる。獣のにおいはしなかった。家の中から大きな犬が、うおんと吠えた。
 きっとあの人は、よそから越してきたのだろう。私がこの町を離れていた数年の間に、どれほどの家族がこの町に移り住んだのだろうか。友人の多くは就職して都内暮らしだから、いまや見知った顔は数えるほどしかいない。
 私が生まれ育ったこの町は、しばらく見ない間にどんどん開発が進められていた。もちろん自分が埋まっている場所も。畑や空き地は分譲住宅の一戸建てや、アパートやマンションになり、古びた平屋やすかすかな駐車場は何かの施設になっていた。

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