小説

『きのうの私』まやかし(『ドッペルゲンガー』)

 地元と思っていた町から、部外者とみなされている気配がする。横浜に借りているマンションを思い出す。思えば数年住んでいるのに、駅までの道以外に詳しいところもない。私に故郷と呼べる場所はなくなってしまったのか。だんだん足が速くなる。心臓がざわざわする。自分の居場所がなくなってしまったように思えてきて、不安になる。早く私を見つけたかった。そうして安心したかった。
 早足でなだらかな坂を上がって駅に出た。北口の本屋を右に曲がって商店街に入る。ときおりごおっと音がする。飛行機が頭の上を掠めるように飛んで、街全体がかすかに振動する。この辺りは高校へ行くための通学路だったことを思い出す。
 碁盤の目状になった道をじぐざぐに進んで、大きな団地に囲まれた小さな公園にやってきた。子供が砂場で遊んでいる。砂場を探索したいのだけれど、大人しくブランコに座って待つ。
 さらさらと、葉っぱが擦れる音がする。こんな音を昔に聞いた。顔を上げて目をつむる。まぶたの裏で紫色の模様が泳いでいる。
 あのころ私には好きな人がいて、部活の帰りによくこの公園に寄ったんだった。ここで私から告白して、初めてのキスもここでした。お互い別の大学に進んで、二人の関係は終わってしまった。あのとき別れていなければ、きっと結婚していたに違いない。大人になって結婚を意識しはじめて、やっとあの人のよさがわかった。一緒にいて落ち着く人。
 目を開けると、青い空を緑の葉っぱが舞っていた。向かいのベンチに、老人が一人座っていた。ふいに私は今日の発見を教えたくなって駆け寄った。
「こんにちは」と、声をかけると、老人は重たそうな目をゆっくりと開いて、もごもご口を動かしながら喋りはじめた。
「こんにちは」老婆はこっちを向かなかった。
「暖かくて、気持ちいいですね」
「ええ、本当に」
 前置きもそこそこに、本題に入る。
「あの、地面を掘ると、きのうの私が埋まっているんですよ。ドッペルゲンガーっていうんです」興奮気味に話す私に、老婆は「そうですか」と、ただほほ笑んでいた。
「すごいですよね。あ、きのうとは限りません。もっと前の私もいました」「ええ、ええ」
「とにかく、ですね。地面には昔の自分が埋まっているんですよ。きっとここにも以前の私が埋まっていると思うんです」「そうですか」「おばあさんは自分を見つけたことがありますか」「いえ、ありませんよ」

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