小説

『蚊』みなみまこと(『変身』フランツ・カフカ / 『カエルの王子』)

 そんなことを考えていると、頭に血が上り鼻血が出るのではないかと思った。蚊に鼻はないし、妹から吸った血が腹の中に満杯にはいっているだけだけど。
 そんなことを何度も思いめぐらしながら、夕方を待った。
 夕方になるとトンボどもはどこかへ言って、ツバメの飛ぶ姿もない。
 空中は俺のものだと飛び立った。
 姫野有里香さんはアパートの二階に一人暮らしだ。
 大学で勉強するために新潟から上京してきたのだ。
 なぜ、俺がこんなことを知っているかというと、彼女の郵便物をちょっと見たことがあるのだ。郵便受けに入っていたのをちょっとだけだ。実家からと思われる郵便物があったのだ。
 有里香さんの住んでいるアパートの窓を見上げる電信柱の下まで来た。
 俺が人間だった頃、よくこの辺から、窓を見上げてため息をついたものだ。
 人間だった頃と言っても昨日のことだが、懐かしく感じられる。
 有里香は、いつもこのくらいに帰ってきて窓を開けるのだ。
 窓に映る夕空を見上げていると、ガラス戸が開き有里香さんが顔を出した。
 美しい……。
 ほんのりと夕焼けに染まった有里香さんの顔に向けて俺は飛んだ。
 有里香さんの吐き出す二酸化炭素が芳しく俺の脳神経を震わせた。
 妹の二酸化炭素の何倍もよい香りだ。
 有里香さんの周りを飛び回ってみる。
 美しい身体のラインにもうくらくらしそうだ。
 二酸化炭素に混じって、有里香さんの汗の臭いがほんのりと漂ってきた。
 蚊は二酸化炭素だけではなく、汗に混じるアンモニア臭などにも寄ってくると聞いたことがある。
 この香りは、殺人的だ!
 蚊の食欲だけではなく、人間の男としての性欲まで刺激する芳香である。
 もう、たまらん!
 俺は有里香さんの腕に止まり、その肌の感触を確かめる。
 白く輝く光の膜で覆われているように思えた有里香さんの肌は、やわらかくなめらかであった。
 有里香さんの血を吸えたなら俺は叩きつぶされたってかまわない、と思った。

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