小説

『蚊』みなみまこと(『変身』フランツ・カフカ / 『カエルの王子』)

ツギクルバナー

 朝、目を覚ますと、身体が宙に浮いていることに気が付いた。
 ベットの上、布団上空十センチメートルに俺の身体はあった。
 シーツが海のように広がって見える。
 鏡を見ようと部屋の中を見渡すと視覚がおかしいことに気が付いた。前、真上、横、斜め後ろ上まで、魚眼レンズを覗いたように同時に視認できるのだ。
 俺の背後からは断続的な高音が響いている。この音は、俺の背中についている何かが高速で震えることで発生しているようだ。俺の背中で震えてるものは一秒間に五百回以上も振動し、身体を空中に静止させているらしい。
 部屋に初めから鏡などないことを思い出し、仕方がないので、ガラス窓に姿を写してみた。
 しかし、自分の姿が見えない。写っていないのだ。
 いや、よく見ると写っているではないか。
 あまりに小さい姿なので、見つけにくかったのだ。
 顔中が覆われているような大きな目に毛むくじゃらの触角、長く伸びた針のような口唇、長い手足に細い身体、背中に付いた高速で羽ばたく透明な羽。
 蚊だった。
 俺は蚊になってしまったのだ。
「なぜだ!」と俺は叫んだ。
 しかし、それは言葉にはならない。
 蚊の口はしゃべれるように出来ていないのだ。
 その代わり、羽音が微妙に変化して、「ぶ、ぶぶぶぶん、ぶぶぶうぅぅ!」と鳴った。
 受験勉強のやりすぎだろうか。
 浪人生活のストレスから変身してしまったのだろうか。
 それとも、何かの呪いだろうか。
 考えられることは、蚊を殺したことくらいだ。
 俺は蚊を叩くことにかけては天才的だと思っている。暗闇で羽音を聞き取るのが巧みで、頬に止まった蚊を羽音と皮膚に止まる感覚で位置を把握し、一発でつぶすことができる。
 昨晩も寝際に何匹かつぶしたのだ。
 そんなことで、呪われるなどと聞いたことはないが、実際、蚊に変身してしまったのだから、そうかもしれない。

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