「……僕の音楽にはこれからずっとアリスがついてまわる。それを受け入れるためにこの曲を書いたんだ」
日下はそこまで言うと、一転して悪戯をする子どものような顔になった。
「でもこの曲はアルバムには入れないよ」
「なんで」
俺が聞くと、日下が返す。
「そこまでキャロルの物語をなぞるのがばかばかしくなったんだよ。そんな曲を真面目ぶって残すのも癪だしね。……それから」
声色には気持ち良いほどの余裕がある。俺はこの男の何を知っているわけでもないが、これが日下の本来の口調なんだろうと思った。日下がこちらへ向き直し、俺の目を見据える。
「この曲はウサギさんに預けておこうかと思って」
「……」
俺は今まで日下と接してきた日々を思い出した。そうだ、今思えばこいつは元々どこか変なやつだった。
「これからどうなるかわからないけど、たぶんうまくやるよ」
日下が穏やかな口調で言い切った。
結果から言えば、ゴールデンアフタヌーンがある間は日下はうまくやれなかった。売上も知名度も最後まで振るわず、結局あのアルバムが最後になった。解散のときは喧嘩になったんだったか。あまり覚えていないが、日下と涼介が肩をくんだ姿は、日下の大笑いを見たあの日以来一度も見なかった気がする。
「恵一、どうした大丈夫か」
机ががたついてティーカップがかちゃかちゃ鳴り、涼介の心配そうな声が聞こえた。そりゃそうだろう、目の前の俺が急に切羽詰ってもうやめろとか言い出したのだ。テレビから日下の声が聞こえて、急にひどく昔のことを思い出した。――君はウサギだね、アリスを不思議の国に連れてくウサギ……
語る日下の後ろにいつものアイドルチューンが流れる。テンポもアレンジも随分違っているが、間違いなく日下が俺の前で弾いたあの曲だった。日下がどんなつもりでこの曲を世に出したのかわからない。俺たちに伝わったところで今更何が変わるわけでもないし、単に日下自身が勝手に吹っ切れたのか、もしかしたらただの気まぐれかもしれない。
「ロリーナの追想……」
「恵一?」
俺は不思議の国なんか信じていない。それは今も変わらなかった。