小説

『リコレクション・イン・ゴールデンアフタヌーン』こがめみく(『不思議の国のアリス』)

 目の前で羊の鈴が鳴る。違う、涼介がティーカップをソーサーに置いた音だ。
ずいぶんと久しぶりだとか、7年間お互いが何してたとか、そういう類の会話はひと通りさらった後らしいことが涼介の様子からわかった。
「……ゴールデンアフタヌーンってのが『不思議の国のアリス』に出てくる言葉だって、最近初めて知ってさ。えらい今更だって自分で笑ったけど」
 涼介が言い、スプーンで紅茶をかき混ぜる。繊細な陶器が小さく叫んだ。
「そしたらテレビで日下をよく見るようになってさ。ちゃんと聞いてたらどこでもかかってるよな、今の曲。今日は今日でお前にも会うし」
 なんかあんのかね、と涼介が笑った。
「……お前は知ってた?」
 どこかでキン、という音が聞こえた。さっきの紅茶を混ぜる音に似ていたけれど、もっとこれに似た音を昔何度も聞いた気がする。
「何を」
「だから、『アリス』のことだよ」
 俺は、涼介が部屋を飛び出して戻ってきてまた出て行った日のことを思い出した。
「……俺たちが3人組で、アリスも3人姉妹だからとかなんとか。日下が言ってんのなら聞いてた」
「なんだそれ、俺たちが3姉妹なのかよ。気色悪ぃ」
 涼介が苦笑する。
 俺はさらに記憶を辿った。不思議の国に行ったアリス。追想するロリーナ。
「でもさ、だとしたらアリスは日下なんだろうな」
 涼介が言う。俺は顔を上げた。へ、と間抜けな声が漏れた。
「だって不思議の国に行っただろ」
涼介は続ける。
「音楽やってたときさ、俺毎回、自分はこのまま死ぬんだなって思ってたんだよ。ガキみたいだろ。でも本当にそう思ったんだ。ギター弾きながら、このまま体中の血が蒸発して死ぬんだって思ってた」
 テレビ画面の日下が、穏やかな物腰で司会者とやり取りしている。ナレーションが、天才、非凡、とその通り名をうたい上げるたび、日下は律儀に首をすくめたり眉を下げたりした。
「日下が今いるのは、生きてて音楽やって、また生きるために音楽やって、って世界だもんな。そんな尋常じゃない精神力のやつが一人二人じゃない、うじゃうじゃいて、それでも回ってるって、もうそんなん不思議の国だよ」
 確か日下は涼介がアリスだと言っていた。別にわざわざ訂正するようなことじゃない。
「行きたかったのか」
 俺は涼介に何を言わせたいんだろう。
「なんだよ、不思議の国に、か?」
 涼介が茶化すようにからりと笑う。重く湿った息は間引かれ、小さく圧縮されて次の言葉で吐き出された。
「あいつみたいにはなりたくない」
 直後の涼介のはっとしたような顔を、俺は見ないふりをした。なんだか処刑人にでもなったみたいだと酷く傲慢なことを考えて、自分の傲慢さをわかっているという免罪符を必死に掲げて立っていた。
 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10