小説

『リコレクション・イン・ゴールデンアフタヌーン』こがめみく(『不思議の国のアリス』)

 そんなもの見たくもない。頼むから振り返らずに消えてくれ。
 キン、キン、という音がする。うるさい。
「僕の音楽はアリスへの追想なんだ」
 日下が言う。
「谷本くんには僕に見えないものが見える。僕の行けないところに行ける。不思議の国に連れて行ってもらえる選ばれた人間だ」
 俺はキン、キン、という音が自分のなかから聞こえているのに気づいた。――アリスは日下なんだろうな、と言う涼介の声がすぐ近くで聞こえた。俺はいまどこにいるんだ。
「僕は彼の見たものを想像する。目を開けたら全て消えてしまう、退屈な現実に変わってしまうまでの不思議の国を瞼の裏に焼き付けて、なんとか模ろうとする。それが僕の音楽なんだと思う」
 頭の中で反響する音の合間に日下を見た。
「やっぱり僕はロリーナだ」
 いつになく落ち着きはらったような顔の日下を見たとき、夕暮れの川べりや大木にもたれるロリーナや駆けてゆくアリスが砂になって消えた。全部ハリボテだ。こんなもの俺には最初から見えなかった。
 ――日下は不思議の国に行っただろ。また涼介の声がする。

「もうやめてくれ」
 自分のものと思えないような悲痛な声が自分の口から絞り出されていた。
 鍵盤と向き合っていた日下が俺の方を向く。ティーカップのふちをなぞっていた涼介の視線が俺の顔に飛ぶ。
 何がアリスだ、何が不思議の国だ。こんな茶番を見せつけるのはもうやめてくれ。本当に茶番だったら、そう吐き捨てることも出来たのだろうか。
 不思議の国なんて俺は端から信じていない。涼介に見えて日下に見えない世界があるなんて気のせいだと思う。俺はそうして生きてきたし、それはたぶん変えられないことだった。不思議の国がどこかにあることを認めながら生きてゆける時点で、日下とたぶん涼介は、始めから俺とは違う次元にいた。俺には感じ取れない漠然としたものを拠り所にして、日下は涼介にアリスを見て、涼介は日下がアリスだと言う。俺にはそんなことどっちでもよかった。ただ、夕暮れの川べりで妹にキスをする姉を、そんな美しい景色をおぼろげに見た。おぼろげにしか見えない世界の中に、何もできずに立ち尽くす自分に気づいた。ここで、俺は何者になればいいんだろう。そんなことが頭をよぎるたびに、俺は消えてしまいそうになった。自分を不安定にするこの場所が嫌いだった。そうだ、俺はゴールデンアフタヌーンがなくなればいいと思っていた。
 

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