「……お前は日下を嫌いだったのかな」
自分の言葉が沈黙を落として去ってゆく感覚。周りの喧騒がきめ細かく混ざり合って、沈黙の外郭を滑らかに通り過ぎる。覚悟を決めるような顔をして、涼介が口を開いた。
「俺は“金色の昼下がり”なんて知らなかったし、あのアルバムが最後になるとも知らなかった」
俺は黙って涼介の声を聞いた。
「日下がさっさと話進めて、『不思議の国のアリス』をモチーフにしてアルバムを作るってことになったろ。で、バンド名の由来が『アリス』に出てくる“金色の昼下がり”。そんときの俺はそれすらちゃんと知らなかったけどさ」
涼介は一息でそこまで言いきってしまった。またどこかでキン、キンという音がする。
「日下はあのアルバムが最後になるって知ってたんだ。と言うよりあいつが最後にしたんだろ。バンドの象徴みたいなアルバムを出して、敢えてそうしたみたいに解散する。俺たちが必死になっても目の前しか見えなかったときに、あいつはもう自分の将来を見てて、その片手間にゴールデンアフタヌーンの終わりを小綺麗に飾り付けたんだよ。……あ」
涼介が急に俺を見て、自嘲するような息を吐いた。
「俺たち、じゃない、俺だけか、何も見えてなかったのは。お前は『アリス』のことも知ってたんだもんな」
「違うよ」
そうだ、俺だってあれが最後なんて知らなかった。でももっと違うのはそこじゃない。思い出せない。頭が痛い。
【――……僕の音楽は、】
ふと、テレビの音が喧噪から浮かび上がる。日下が何か語っている。
【僕の音楽は追想なんです。】
飽きもせずにリピートされるあの曲に、キン、キン、という音が混じる。
幻聴だ。
「曲が出来たから、聞いてくれる?」
日下がそう言って呼び出してきたので、てっきり3人で『アリス』のアルバムのミーティングをするのだとばかり思っていた。いざ行ってみると居たのは日下だけで、部屋に入るなり涼介は来ないと言われた。
「曲のことなら俺より涼介がいた方がいいだろうに」
俺が言うのをほとんど聞き流すようにして、日下が鍵盤の前に座る。かと思うと、ちらとこちらを向いて勿体ぶるように言った。
「……これは宇佐見君じゃないとだめなんだよね」
日下はもう半分ほど意識をピアノに溶け込ませている。
「タイトルも決まってるんだ。……『ロリーナの追想』っていうんだけど」
少しの沈黙があって、最初の一音が響いた。
日下の指が、ひとつひとつの音を丁寧に紡いでゆく。光と影がせめぎあわず静かに溶け込んでいく余地を持った、ゆったりと大きなバラードだった。
夕暮れの川べり。落ちてくる枯葉。そこにいるのは日下だ。この曲は日下自身の追想なのだ。だとすれば、さっき駆けて行った少女は涼介の顔をしているはずだった。