「なんでだと思う?」
よくわからないのは今に始まったことではないのだが、それに対する俺の解釈をこんな風に求めてくるのは珍しかった。俺は咄嗟に答える。
「……定員でもあったんじゃないの」
「定員?」
「食いついてきた奴みんなを連れてくんじゃキリがないだろ。……アリスが選ばれたのはさ、」
日下は黙って俺を見ている。深く考えずにした返事の割に、俺の答えは日下の興味を引いているらしかった。
「……やっぱり他の奴とは何かしら違ってたんだろ」
日下は少し黙り込んだあと、なるほどね、と大袈裟に納得する仕草をしてみせた。遠くへ飛んでいた目はいつの間にか俺の前に戻っていて、視線はスタジオのぬるい空気に溶け込んだ。
「キャロルは写真もやったんだけど、捨てられた写真のなかから少女の裸像が見つかったって話があるんだよね」
「……」
「アリスと何かあったって考え方もあるね」
日下がからりと笑う。出鱈目な流れでえげつないことを言う奴だと思った。俺の子どもみたいな答えを馬鹿にしているのかもしれない。
涼介がブースからこちらへ視線をよこした。ギターの準備が整ったらしい。
「じゃ、録ろう」
日下が短く言う。ブース内の涼介が小さく空気を吸い込み、吐ききった。深い呼吸音がガラスを通り抜けて聞こえてくるようだ。涼介のギターが歌い出すと、日下が表情を変えた。ゴールデンアフタヌーンが出来てから、俺は何度かこういう涼介と日下を目にしている。
あの日涼介は、部屋を飛び出し一時間してやっと戻ってきたと思うと、新しいバンド名を聞くなりまた出て行って、そのまま数日間音信不通になった。その間も日下は坦々とゴールデンアフタヌーンを形づくってゆき、俺はぼんやりとそれを見ていた。数日後、涼介が息を荒くしながら戻ってきて、この曲を弾いた。涼介のギターが部屋を揺らす。なにか書き物をしていた日下の手が止まり、ペンの転がる音がした。
そのときの日下の表情を正確に形容するのは難しい。驚きと言うには感情の着地点が定まりすぎているような、感動と言うには曇りがかった部分が多すぎるような、なんとも言えない顔をしていた。曲が終わっても、日下と涼介は何も言葉を交わさなかった。あれ以来、涼介の音楽と出会うたびに、日下はそういう表情をするようになった。
最後の一音が響いて、ブースの向こうの涼介が長く息を吐いた。
「……不思議の国に行ったのはアリスだけど」
日下が隣で言う。これはたぶん独り言だ。
「僕にはロリーナの気持ちの方がよく分かるんだ」
日下はよく、ロリーナというアリスの姉の話をした。ハートの女王の不条理な裁判に怒ったアリスは、気がつくとロリーナの膝を枕にして横になっていた。アリスは不思議の国のことをロリーナに話して聞かせ、ロリーナのキスを受け取ると立ち上がって駆け出した。ロリーナは目を閉じ、妹が旅した不思議の国に思いを馳せる。三月兎の終わらないお茶会や、ハートの女王の甲高い命令や、海亀フーのすすり泣きを思う。しかしロリーナが目を開けると、それはすべて消えてしまうのだ。海亀フーの嗚咽は農場の騒音に、女王の金切り声は羊飼いの少年の声に、かちゃかちゃいうティーカップは羊が付けた鈴の音に変わってしまうのである。