時計の針は午後12時半を指している。金色の――……頭の中でぼんやりと復唱しながら、ふと店の入口に視線を飛ばした。今日ここに来るまでに散々見てきたはずの外の景色を、まるで異国の風景を想像するかのように思い描く。
突然扉が開かれた。客が入ってきただけなのに、心臓が大きく脈打つ。客が障害になって扉の向こうが見えない。俺は無意識に背筋を伸ばし、扉の先を見ようとしていた。
「……恵一?」
視界の上方から声がした。はっとして顔を上げる。
7年間会っていなくても、ここまでその相手だと確信が持てるものなのか。
「……涼介」
扉の前に突っ立ったままの男の名前を呟く。
突然テレビの音が大きくなって、思わずそちらを振り向いた。
【……本日は大物ゲストの方にお越しいただいてます!音楽プロデューサーの日下直也さんでーす!】
画面の向こうで、日下が会釈しながら入場してくる。BGMがあの曲だ。意識が飛んで行く。7年前に戻っていく。もやのかかったような頭で、やっぱりこの曲にこの音はうるさすぎる、と思った。
「作者のルイス・キャロルが、アリスに捧げた詩を知ってる?」
俺を相手に何かしら語り出すとき、日下はいつも形ばかりの前置きをする。俺が何も言わないのを確かめてからぽつりぽつりと話し始めるのが、日下の中では決まりになっているようだった。
「…オールインザゴールデンアフタヌーン、フルリーシュアリーウィーグライド…」
日下の口元が、歌うように言葉を紡いだ。なんの構えもとっていなかった耳には一瞬暗号のように聞こえたが、すぐに拙い発音の英語だとわかる。正直カタカナ英語もいいところだが、日下の口から出ると全く滑稽には聞こえないのが不思議だった。
「ある日、キャロルはリデル家の三姉妹を連れて郊外へ遊びに行く…」
日下は、ここではないどこかに想いを馳せるように瞼を閉じた。
「金色の昼下がりのなかで、3人はキャロルにお話をせがむんだ。3人の勢いに負けて、キャロルはしかたなく語り始める。夢の子の行く地、未知の不思議の数々…3人はお話に夢中になる」
でも、と呟き、日下が目を開ける。
「本当に不思議の国に行けたのは、アリスだけだった」
「……本当に?」
俺は思わず復唱した。不思議の国が実在するとでも言うんだろうか。
「キャロルは、その即興の物語を文字に起こすことにしたんだ。次女のアリスを主人公に据えてね。それが出版され翻訳されて僕らの知るところになったのが、『不思議の国のアリス』」
次第に遠い目になりながら、日下は語り続ける。
「……なんで主人公をアリスだけにしたんだろうね。突飛な物語に食いつく10才やそこらの子どもに、大した違いなんてないのにさ。キャロルにお話をせがむ3人の目は、たぶん皆同じように輝いていたと思う。それなのに、キャロルはアリス1人しか不思議の国に連れて行ってやらなかった」
日下の言うことは、たまによくわからない。